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【2025/05/14 03:38 】 |
渕正信
渕 正信(ふち まさのぶ、1954年1月14日 - )は、日本のプロレスラー。福岡県北九州市戸畑区出身。全日本プロレス所属レスラー兼同社取締役。身長183cm、体重105kg。血液型B型。
入場テーマ曲は『DANZER ZONE(映画『トップガン』より)』。赤鬼、地獄の仕事人の異名を持つ。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 その他
5 脚註
6 外部リンク
来歴 [編集]

八幡大学付属高校時代はレスリングと陸上競技で鍛えあげる。八幡大学進学も中退し、日本プロレスへ入門を目指し上京するが、列車の中で読んだ九州スポーツで、日プロの崩壊を知り、一旦九州に帰る。
その後1974年4月10日に全日本プロレス入門(理由はジャイアント馬場に憧れていたから。新日本プロレスもすでに旗揚げされていたが、日プロ時代のファンである渕は「馬場さんと猪木さんでは、スターとしては格がまったく違うじゃないですか」と後に語っている)。入門わずか12日で徳島県三好市(旧池田町)四国電力横広場での大仁田厚戦でデビュー。当時は大仁田とハル薗田(薗田一治)と共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていった。
1980年に海外武者修行に出発、途中で大仁田と合流し、翌年AWA南部タッグ王座を奪取。全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチより指導を受けている。1983年6月にはチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも王座奪取ならず。その後は、ジュニアに転向したマイティ井上や、移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン(薗田一治)、2代目タイガーマスクらのサポートに回ったり、怪我から復帰してきた大仁田と前座で闘っていたが、2代目タイガーのヘビー級転向を受けて、再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年に小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立する。
その一方で、三沢光晴率いる超世代軍とジャンボ鶴田率いる鶴田軍との抗争では鶴田軍についてメインイベントなどで戦う他、永源遙や大熊元司らと共に悪役商会の一員としてジャイアント馬場、ラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を繰り広げるなど、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本を支えた(よく試合後のラッシャー木村のマイクパフォーマンスで独身ネタで槍玉に挙げられる)。
中でも低空ドロップキックの開発は多くのプロレスラー、特にジュニアヘビー級のファイトスタイルに極めて大きな影響を及ぼす。低空ドロップキックと無数の関節・ストレッチ技、ナックルパートや顔面キック、アトミック・ドロップの体勢からの急所攻撃など、テクニックとラフを兼ね備えた観客を強く刺激するファイトスタイルを確立してジュニアのみならず三沢らヘビー級とも堂々渡り合い、「赤鬼」の異名を取る。
2000年に起こった大量離脱騒動で、中堅レスラーとして活躍していた渕はトップを張らざるを得なくなった。8月の新日本プロレス両国国技館大会に会場入りした際に「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました」と歴史に残るマイクアピールをし交流戦をスタートさせた。またこのとき現れた当代一のカリスマ・蝶野正洋が帽子を投げつけて帰ろうとすると、「蝶野、忘れ物だ」と余裕綽々で帽子を放り返し、格負けしない振る舞いを見せ付けたことも語り草になっている。なお、渕の登場に際しては事前に新日本プロレスに承諾を得ていたこと、また正装でリングに上がり「新日本プロレスのファンの皆様、どうも大変お騒がせしました」としめくくったことから、会場からは異例の大フッチーコールが沸き起こった。
武藤敬司、小島聡らが移籍し、徐々に所属選手も増え団体として活気を徐々に取り戻してくると、再び中堅ベテランレスラーとしてガッチリ脇を固め、リング外ではスポークスマンとして今日まで活躍している。
大のキティちゃん好きとしても知られ、全日本のスポンサーであるあすなろ舎から作ってもらった世界に一着しかないキティちゃんのガウンを着ての入場は現在の全日前座名物の一つともなっている。
結婚経験がなく、かつてあった『週刊ゴング』や現在もある『週刊プロレス』の読者コーナーに度々渕独身ネタが投稿・掲載されることがあるほか、ラッシャー木村からネタにされたことも多い。永源遙が「渕が結婚しないのは、マザコンだからだ」とネタにしている。
後述の世界ジュニア最多防衛記録保持者であるが故に、TAKAみちのくが14度目の防衛の対戦相手として決めていたのが渕であったり、前保持者近藤修司が執拗に渕との世界ジュニア戦を要求していたなど、全日本ジュニアでの影響力は依然衰えていないが、体力的な衰えは隠せず、菊タロー、荒谷と共にお笑いスタイルの第一試合で興行を暖める役に徹している。なお、菊タローにはシングルで1度も負けていない。
和田京平レフェリーと共に、団体生え抜きの人物として全日本プロレスの看板を守り通す重鎮でもある。
得意技 [編集]

フロントハイキック
容赦無く相手の顔面をリングシューズの裏で蹴り付ける。相手との間合いの取り方が絶妙。
延髄斬り
一連のコンビネーションの中でタイミング良く決める。一撃で強豪ダニー・クロファットを沈めた事もある。
バックドロップ
低空のヘソ投げ式。渕の言わずと知れた伝家の宝刀である。大一番になると連続して相手に繰り出し、1ダース(12発)以上連発することもある。
低空ドロップキック
スモールパッケージホールド(首固め)
両足をクラッチしたフィッシャーマンのような体勢から、後方にごろんと回転して丸め込むクイック技。4回、5回と連続で繰り出すことがあり、諦めてフォールを奪われた選手は多い。相手の脚をホールドするのがミソ。
三沢式フェイスロック
脇固め
ヒザ折り固め
カーフ・ブランディング(子牛の焼印押し)
1985年頃より使い出し、ダイナマイト・キッドらによく仕掛けていたが、「赤鬼」と異名を貰い始めた頃より、派手な技を避け始めたため、封印状態になっている。
各種拷問関節技
若手時代に指導を受けたカール・ゴッチ直伝で、その数は48手(実際のところは不明)に及ぶと言われる。海外遠征より帰国した際にはジャーマン・スープレックスも得意技としていた。しかもゴッチ直伝をアピールするように「ドイツ式敬礼した状態のままブリッジした足の形」である。
獲得タイトル [編集]

世界ジュニアヘビー級王座(5度)
第3代(防衛7回)、第6代(防衛1回)、第10代(防衛14回)、第12代(防衛2回)、第15代(防衛0回)王者。第10代王者時代に成し遂げた防衛14回、在位期間3年7か月の記録はいまだ破られていない。
アジアタッグ王座(1度)
第76代(防衛3回)、パートナーは天龍源一郎
AWA南部タッグ(1度)
歴代と防衛回数は共に不明、パートナーは大仁田厚
NWA南部タッグ(1度)
歴代と防衛回数は共に不明、パートナーは大仁田厚
その他 [編集]

全日本プロレス入門前後には神奈川県茅ヶ崎市に在住しており、そこから道場に通っていた。渕自身がアマレス出身であったこともあり、同じアマレス出身で渕より先に入門していたジャンボ鶴田とは全日本プロレスの初期によくスパーリングしていたことを語っている[1]。
一時期全日本プロレス中継での解説を務めた事があるが(1991 - 1992年ごろ)、基本的に公の場での発言はあまり見られず、無口・口下手な印象を与えていた。しかし2000年8月、新日本プロレスのG1 CLIMAX・両国国技館での観客に対するマイクアピール、更には蝶野正洋に対するパフォーマンスは、これまでの渕の印象をガラリと変えるものであり、会場の新日本ファンからも大喝采を浴びた。
自身の結婚経験がないことをネタにして、北斗晶と不倫(?)というギミックで佐々木健介とシングル戦を行ったことがある。試合は練習生の受身練習状態だった。
結婚歴が三度ある石田純一と生年月日が同一である。
志村けんとは大親友である。
経歴欄にある低空ドロップキックは、超世代軍との闘いの中でクローズアップされたが、その原型は左膝蓋骨粉砕骨折による欠場から復帰してきた大仁田に対し、連日タッグマッチで対戦を組まれていた頃に出来上がった。この攻撃については当時、「かわいそう」「(せっかく復帰したのに)そこまでやらなくても…」との批判もあったが、攻撃を仕掛ける渕も、受ける大仁田も「プロなら当然の事」とコメントしていた。
2007年1月4日に行われた新日本ドーム大会で、実況アナから「全日本最後の良心」や「色白ダンディズム」という、なぜか今まで言われたことのないニックネームで呼ばれていた。
リングガウンはキティちゃんの顔に胴体部がヘビみたいなものが背中に書かれたブルゾンである。
場内の「フッチー(チャチャチャ) フッチー(チャチャチャ)」のコールは定番である。
また、胸の皮膚が弱く、小島聡やカズ・ハヤシの逆水平チョップで胸板が真っ赤になっている姿が度々見られる。
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【2010/12/28 19:37 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
浜亮太
浜 亮太(はま りょうた、1979年11月21日 - )は、大阪府茨木市出身のプロレスラー。全日本プロレス所属している。1994年から2008年まで、大相撲八角部屋所属の力士として活動した。四股名は北勝嵐(ほくとあらし)、最高位は幕下6枚目。
力士時代は身長175cm、体重182kg。プロレスラー転向後は、公称体重189kgとされていたが、実際には体重は200kgを超えており、一説には203kgとも言われていた[1]。身長はヘビー級としてはかなり低めだが、体重に至っては日本出身プロレスラー史上最重量となる。本名は、濱 亮太(はま りょうた)。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 大相撲時代
1.2 プロレス転向
2 改名歴
3 得意技
4 タイトル歴
5 エピソード
6 脚注
7 外部リンク
経歴 [編集]

大相撲時代 [編集]
1994年、大相撲の八角部屋に15歳で入門し、1995年7月場所に濱亮太の四股名で初土俵を踏む。1997年11場所から北勝嵐と改名し、3場所全休で序二段まで下がった1999年7月場所で序二段優勝、2001年9月場所には幕下優勝を飾り、翌11月場所では自己最高位の東幕下6枚目に昇進した。頭でぶちまかす突き押し相撲を得意としたが、ケガが多くたびたび休場を繰り返し、2008年5月場所には両膝膝蓋骨を脱臼したため、この場所限りで引退した。断髪式には、横綱の白鵬も駆けつけた。
プロレス転向 [編集]
2008年プロレス転向を決意し7月に全日本プロレスに入団。頭を丸めて1日目から練習生として入寮し電話番やちゃんこ番をこなしているという。
7月14日、事務所で入団会見を行う。武藤敬司と共に出席し「体重があるのに動ける吉江豊選手が目標」と語った。
武藤は「歳も歳だしゆっくりしていられない」と語り努力次第でデビューも近いかもしれないと語っていた。
そして11月3日の両国国技館大会という大きな舞台でのデビューが決定、更にその相手が元横綱の曙であることを発表。この破格の待遇に期待の大きさが窺える。 さらに体重を189kgまで増量し、今までは丸坊主がそのまま伸びたような新人らしい髪型だったがデビューに向けて大金星を狙えるようにと金髪のパンチパーマというヘアスタイルにした。
デビュー戦では、曙の巨体を投げきるなど奮闘。その甲斐もあってか、翌日の会見では武藤敬司と組んで世界最強タッグ決定リーグ戦への出場が発表された。デビュー直後の抜擢は1992年大会の秋山準と並び異例の早さである。
11月16日の台湾大会では、ランニングボディ・プレスで早くも先輩荒谷望誉からプロ初勝利をあげる。
最強タッグが始まる前まではタッグマッチの経験がまったくなく、全敗も予想されたが、3勝4敗・勝ち点6の成績を残した。その1勝の中には師匠であるカズ・ハヤシからフォールを奪う活躍も見せた。敗れた試合でも先輩選手達から後1歩のところまで苦しめるなど、圧倒的なインパクトと存在感を残した。
2009年3月14日の両国大会ではデビュー戦の相手を務めた曙とタッグを結成しゾディアック&ジョー・ドーリングの「ブードゥータワーズ」と対戦、VOODOO-MURDERSによる度重なる反則に苦しめられ惨敗を喫する。
4月にはチャンピオン・カーニバルに参戦、開幕戦ではゾディアックを新技「リョウタハマー」で下し、さらに太陽ケアにも勝利し、2勝3敗でチャンピオン・カーニバルを終えた。
2009年9月23日、後楽園ホールにて曙とタッグを組み、鈴木みのる&NOSAWA論外組を破り、第82代アジアタッグ王座を獲得。そして12月10日、プロレス大賞・最優秀タッグチーム賞と新人賞を受賞。17日には曙とのタッグチーム名を「SMOP」(スーパー・メガトン・オオズモウ・パワーズ)にすることを発表した。
2010年1月2日、タッグマッチながら三冠王者の小島聡からフォールを奪う。さらに2月7日には武藤からもフォールを奪い、試合後マイクで三冠王座挑戦をアピールした。
そして3月21日、両国国技館で小島をシャイニング・ウイザードからのリョウタハマーで沈め三冠王座を獲得。デビュー後1年4ヶ月18日という三冠王座史上最短挑戦試合は、諏訪魔の最速戴冠(デビュー3年6カ月)も塗り替えるダブル記録をも樹立した。
4月29日、TARU&ビッグ・ダディ・ブードゥ組に敗れてアジアタッグ王座から陥落し、試合後曙と仲間割れした。5月2日には鈴木みのるに敗れ三冠王座からも陥落した。
5月2日の試合後には、諏訪魔や河野真幸らと新世代軍を結成した。
改名歴 [編集]

濱 亮太(はま りょうた) 1995年7月場所-1997年9月場所
北勝嵐 亮太(ほくとあらし りょうた) 1997年11月場所-2008年5月場所
得意技 [編集]

リョウタハマー
いわゆるジャックハマー。
ボディ・プレス
コーナーから走ってボディ・プレスをすることもある。日本人最大の巨体を活かし、その巨体が上から降ってくる様は相手選手に恐怖を与え、説得力も十分にある。この技によって、台湾大会で、デビュー2戦目にして先輩・荒谷望誉から初勝利を奪った。
エルボー・ドロップ
ドラゴン・スリーパー
対戦相手の顔を自身の脂肪で覆い、呼吸を奪いながら思いっきり体重をかけて締め上げる。この技を受けた小島聡はある意味でこの技の元祖である藤波辰爾を超えた威力があると述べている。
チョークスラム
ハンマーパンチ
タイトル歴 [編集]

第41代三冠ヘビー級王座
第82代アジアタッグ王座 (パートナーは曙)
第2代F-1タッグ選手権 (パートナーは長州小力)
プロレス大賞 新人賞(2009年)、最優秀タッグチーム賞(2009年、パートナーは曙)
エピソード [編集]

角界入りした時の体重は80kg。しかしすぐに大食漢の才能が開花しわずか2年で203kgにもなった。力士時代はフライドチキン20ピースを平らげる、焼酎のボトルを2人で一晩30本空ける、100個食べたら無料のギョーザ専門店では完食するなど多くの伝説を残した。
プロレス転向後もファンから全日本プロレスの道場にギョーザ1000個が届き、チャンコ番の浜が毎日つまみ食いして、約700個を1人で食べ、更に焼肉店で肉30人前、都内の寿司店でにぎりずし80貫平らげた。お陰で196kgだった体重が力士時代の203kgに激増した。なお道場の体重計は150kg以上は計測不能で、知人から紹介された都内の鉄工所で3トンまで量れる業務用のはかりにのり計測したらしい。
またプロレス転向にあたって大関の千代大海から「武藤さんにヒールとして売り出してもらえよ」とエールを送られ、相撲時代の師匠・八角親方からは『性格はプロレス向き。頑張って欲しい』とエールを送られた。また師匠の武藤はコーチ役に若手育成係でもあるカズ・ハヤシをあて「ガッツがある。プロレスを好きって気持ちだけじゃない」と彼の肉体だけでなく精神的強さも褒めている。
携帯サイト「プロレス・格闘技DX」内の全日本コーナーで、デビュー前からブログを受け持つことになった。
先輩レスラー達から可愛がられているのかよく先輩レスラーのブログに登場する。
角界出身だけあって彼のちゃんこは絶品であると伝えられている。さらに食後のデザートも欠かさないとのこと。
あまりに大き過ぎるため、試合中タッグパートナーの武藤に「邪魔だ!どけ!」と言われたことがある。
CX系「クイズ!ヘキサゴンII」スペシャル(2010年6月23日放送回)で、浜は「もし突然おデブちゃんが大勢目の前から突進してきたら」というドッキリにおデブちゃん役で参加した。この時のターゲットの1人だった上地雄輔とは昔の飲み仲間らしく、現在もメールで連絡を取り合う仲らしい。
【2010/12/28 19:36 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
西村修
西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - )は、日本の男性プロレスラー。東京都文京区出身。全日本プロレス所属。階級はヘビー級。ミスター無我、無我の継承者のニックネームを持つ。グラウンドでのサブミッションホールド(関節技・固め技)技を中心としたプロレスを得意とし、そのようなスタイルはしばしば「西村ワールド」と形容される。
現在、慶應義塾大学文学部(通信教育課程)で哲学を専攻する学生でもある。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 新日本プロレス
1.2 新日退団、無我旗揚げ
1.3 藤波と決別・全日へ
2 人物
3 タイトル歴
4 得意技
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]

新日本プロレス [編集]
錦城学園高等学校在学中に新日本プロレス学校に入門。卒業後の1990年に新日本プロレスに入団。
1991年4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之(現:飯塚高史)戦でデビュー。
1993年、第4回ヤングライオン杯に準優勝後、海外武者修行に出発。
1995年に海外武者修行から帰国し、藤波辰爾の自主興行「無我」にもレギュラー出場した。
1997年、再び海外修行へ出発し、欧州CWAマットに参戦。
1998年1月4日に凱旋帰国。直後に佐々木健介が持っていたIWGPヘビー級王座に挑戦するが、ミサイルキックを何度も使う単調な試合運びに終始し、批判を浴びる。しかし現在では今につながる西村の頑固ぶりが出た最初の試合と言われている。その後、ガン(後腹膜腫瘍)宣告を受け長期欠場。原因として当時現場責任者であった長州力の横暴なやり方によるストレスだと言われ、それ以降長州を「共産主義者」と呼んで非常に嫌っている。週刊プロレスのインタビューにも度々そのことについてコメントしている。これに対し長州は無視を決め込んでいる。
手術後も独自の食餌療法と精神修行に励み、2000年に藤波戦で1年8か月ぶりに復帰。藤波と組んでIWGPタッグ王座を奪取。
2002年、プロレスリング・ノアに一日トレードの形で出場し、西村とファイトスタイルが似ていると言われる志賀賢太郎と対戦。
2003年、ノアの秋山準とG1 CLIMAXで対戦し勝利している。
2004年、かつての先輩である武藤敬司率いる全日本プロレスのマットへと上がった。両団体に出場することで新日本に無いものをこの両団体で感じ取れたと言い、段々新日本のプロレスが物足りなくなっていき、他団体への興味を持ち始める。同年、映画「いかレスラー」に主演(共演はAKIRA)。主題歌も歌っている。
新日退団、無我旗揚げ [編集]
2006年1月24日に新日本プロレスを退団[1]。フリーバード(フリーランス)として「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」とフリーとして世界中にある数多の団体のマットに上がることを宣言した。
同年8月2日、後楽園ホールで西村修+田中秀和自主興行『新無我伝説 エピローグ〜BLACK CAT MEMORIAL』を行い、ヒロ斎藤と対戦した。これを契機に、藤波辰爾ら元新日本プロレスのフリー選手や田中秀和とともに新団体、「無我ワールド・プロレスリング」を設立。
2007年10月、ハッスルにTAJIRIの洗脳を解いた「ムガール帝国の賢人」ニシム・ラマとして登場。TAJIRIも無我に参戦した。
藤波と決別・全日へ [編集]
2007年10月19日、全日本プロレスに移籍を発表。無我ワールド側へは何も伝えず「言わば無我からの亡命」と発表し、無我ワールド側も西村=無我という概念を打ち崩せなかったと発表した[2]。
2008年5月には新韓国プロレス大会に参戦。カート・アングル、力抜山との3WAYマッチを制し、NKPW世界ヘビー級王座を獲得。さらには諏訪魔が持つ三冠ヘビー級、鈴木・ケア組が持つ世界タッグ王座に諏訪魔と組んで挑戦している。
2009年になってからは、全日本プロレスに長州力が参戦。おもむろに対抗意識を燃やし、直近の弟子である征矢学を従えて長州力と対戦を続ける。しかし、征矢が長州への弟子入りを志願。弟分の裏切りにあった西村は、征矢以上に自分のスタイルに近い真田聖也を指導していくこととなる。
2010年3月21日、全日本プロレスでの試合後に挨拶を行いプロレスを休業することを発表[3][4]。翌22日、全日本プロレス事務所で会見し、同年夏の参議院議員選挙への出馬を表明した。3月24日には、国民新党公認候補(新党日本推薦)として比例代表より出馬することが発表された[5]。同年7月、第22回参議院議員通常選挙で国民新党の比例代表から出馬するも落選。
人物 [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年12月に貼り付けられました。
デビュー直後、ワールドプロレスリングのインタビューで「新日本に入って今までで一番辛かったことは?」と質問され、「北海道で交通違反で捕まったことです」と答えた。
1993年からのタンパでの海外武者修行時代、ヒロ・マツダに弟子入り。マツダがなぜ一匹狼として活躍できたかの話を聞き、感銘を受けた。「どんなに一流になろうが、自分のことは自分でやれ」と言われたことから、帰国後新日本で地位を築いた後も付き人を付けず、自分で洗濯や所用を済ませていた[要出典]。
無我旗揚げ以前、何もないときはアメリカのタンパで暮らしていた。カール・ゴッチの世話をしながら夜にはワインを酌み交わし、プロレス談義に花を咲かせていたという。また、ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコの自宅にもよく通い、現役時代の話を聞いており、西村は「こんなに勉強になる環境は無い」と語る。西村はマツダ、ドリー、ブリスコ、ゴッチを「師匠」と呼んでいる[要出典]。
ゴッチを師匠と呼ぶが、ファイトスタイルは鈴木みのるに「ゴッチさんから最も遠いところにある」と指摘された[要出典]。
現在のプロレスを「学生プロレス」と扱き下ろした前田日明も西村の人柄を認めており「ゴッチさんの世話をしてくれて、有り難い。身体に気をつけて頑張って欲しい」(プロレス格闘技DX木曜日『大殿が斬る』より)と話している。
(週刊プロレスのインタビューで)拠点を置くタンパと日本との移動の際には、必ずユナイテッド航空を利用し、世界中を修業する際もできる限りユナイテッド航空を利用するほど、ユナイテッド航空をひいきしている。そのため日頃から「私にはパスポートとユナイテッド航空のチケットさえあればいい」と語り、ユナイテッド航空を絶賛している。これは彼が007マニアであり「スーツで飛行機に乗るのは私とジェームズ・ボンド、そして田舎のオッサン位でしょう」と西村にしては、珍しくジョークも飛び出した。
1997年、リングネームを大猷(だいゆう)修(天山の名づけ親でもある大剛鉄之助が命名)と改名するもすぐに本名に戻した。
2010年にゴルフ界MVPになった藤田寛之と感じが非常に似ているので比較されるようになった。
タイトル歴 [編集]

IWGPタッグ王座(パートナーは藤波辰爾、天山広吉)
NKPWA世界ヘビー級王座
GWF認定ライトヘビー級選手権
CWAシュートファイティング王座
フロリダ地区認定USヘビー級王座
得意技 [編集]

元来の体の柔らかさを利用した関節技や、ブリッジを使った技が多い。またゴッチ・猪木・藤波を源流としたストロングスタイル・レスリングを中心に、アメリカ時代に世話になったヒロ・マツダ、ドリー・ファンク・ジュニアの技を引き継いで使っている。
ミサイルキック
新人の頃から大事に使っている西村の主武器。蹴る瞬間、屈伸した両足を思いっきり伸ばすのが西村流。
ムーンサルトプレス
海外武者修行前後にフィニッシュとして使用しており、武藤敬司からの伝授も受けたが、帰国後はほとんど使用せず。同世代である天山広吉が使用するため、差別化を図ったのが一因である。
スープレックス
西村のレパートリーはジャーマン・スープレックス・ホールド、ノーザンライト・スープレックスなど、柔らかいブリッジを生かしフォールに持っていくものを多用する。
スピニング・トーホールド
アメリカに在住していた際、ドリー・ファンク・ジュニアに直接指導を受けたもの。ここから足4の字固めに移行する場合もある。
コブラツイスト
体が柔らかいことを利用し、軟体動物のようにからみつく。そのパーフェクトなフォームをもって猪木以後No.1の使い手。ロープワークの隙をついてグラウンド・コブラツイストに移行しフォールを狙う場合もある。
エルボースマッシュ
以前より使っていたが、アメリカに在住していた際、ドリー・ファンク・ジュニアに直接指導を受けたことで切れ味が増した。
卍固め
師匠・アントニオ猪木から譲り受けたもの。こちらもコブラツイスト同様にフォームが綺麗なことで有名。
ジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールド(後方回転エビ固め)
ロープワークから相手の後方に回り、一気にブリッジして丸め込む。師・藤波の得意技でもある。
インディアン・デス・ロック
ここからブリッジを活かして鎌固めに移行する。
逆さ押さえ込み
ボー・アンド・アロー(弓矢固め)
ヘッドシザーズを倒立で外す
倒立は観客を魅せる西村の代表的な技であるが、対戦相手も対抗して使ってくることがある。
【2010/12/28 19:36 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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