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パット・パターソン(Pat Patterson)のリングネームで知られるピエール・クレモント(Pierre Clemont、1941年1月19日 - )は、カナダ・ケベック州モントリオール出身の元プロレスラー。現在はWWEのクリエイティブ・コンサルタントを務めている。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 逸話 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 少年時代からプロレスラーを志し、15歳の頃に裏方として働き始める。その時リングで活躍していたキラー・コワルスキーにレスラー志望であることを打ち明けたところ、マンツーマンの指導を受ける機会に恵まれ、1958年に16歳でプロレスデビュー。この当時からパット・パターソンのリングネームを名乗っていた。 1960年代からはアメリカ西海岸のNWA加盟団体を中心に活動。サンフランシスコではレイ・スティーブンスとの名タッグ「ブロンド・ボンバーズ(The Blond Bombers)」で鳴らし、ヒールとベビーフェイスの両方で活躍してトップスターとなる。同地区の看板タイトルであるUSヘビー級王座には、1969年から1977年にかけて、ペドロ・モラレス、ザ・ブルート、アンジェロ・モスカ、アレックス・スミルノフらを破り、通算6回に渡って戴冠した[1]。 日本には1968年4月に日本プロレスに初来日。1973年12月にはジョニー・パワーズとのコンビで北米タッグ王者として新日本プロレスに参戦、以降は新日の常連となり、1977年12月の来日時はアントニオ猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦した。また、同年よりサンフランシスコを離れフロリダやAWAなど各地の主要テリトリーを転戦。AWAではスティーブンスとのコンビを再結成し、1978年9月に世界タッグ王座を獲得している[2]。 1979年、グラン・ウィザードをマネージャーにヒールとしてニューヨークのWWF(現WWE)に登場。同年6月にテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取し、それをインターコンチネンタル王座と改称[3]。団体の最高位の王座であるとアピールし、WWF王者ボブ・バックランドと「王者対王者」の抗争を展開、7月から9月にかけてのマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦した[4]。その後ベビーフェイスに転向し、1980年代初頭までWWFの主要レスラーとしてケン・パテラやサージェント・スローターと抗争。並行して地元モントリオールの団体(ジャック・ルージョー・シニア主宰)にも出場していたが、1984年に現役を引退した。 現役引退後はWWFのロード・エージェントを担当し、ブッカーとしてストーリー立案に関わった。1996年にはWWF殿堂入りを果たしている。1997年のモントリオール事件のブッカーの一人であるとされ、またWWFのアティテュード路線における主要なブッカーでもあった。引退後もミスター・マクマホンの側近として時折ストーリーに絡み、2000年6月19日にはハードコア王座にも戴冠している。 2003年のRAW10周年記念特番では、ミーン・ジーン・オーカーランドと共に『放送に問題あり賞』のプレゼンターを務めた。尚、この時この賞を受賞したのは、自身も関わったマーク・ヘンリーとメイ・ヤングのラブストーリーであった。 2004年に入り、トリプルHの起用法を巡りビンス・マクマホンと対立、同年10月にWWEを退団したが、2005年5月に復職している。 得意技 [編集] アトミック・ドロップ フィギュア・4・レッグロック スリーパー・ホールド ダイビング・ニー・ドロップ 獲得タイトル [編集] NWA パシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座 : 3回 パシフィック・ノースウエスト・タッグ王座 : 2回(w / トニー・ボーン、ザ・ハングマン) USヘビー級王座(サンフランシスコ版) : 6回 NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版) : 9回(w / スーパースター・ビリー・グラハム、ペドロ・モラレス、ペッパー・ゴメス、ピーター・メイビア、ムーンドッグ・メイン、ロッキー・ジョンソン×3、トニー・ガレア) 北米ヘビー級王座(アマリロ版) : 1回 ブラスナックル王座(アマリロ版) : 1回 フロリダ・タッグ王座 : 1回(w / イワン・コロフ) フロリダTV王座 : 1回 アメリカス・ヘビー級王座 : 1回 AWA AWA世界タッグ王座 : 1回(w / レイ・スティーブンス) WWE 北米ヘビー級王座(インターコンチネンタル王座) : 1回(初代王者) ハードコア王座 : 1回 Hall of Fame : 1996年度(プレゼンターはブレット・ハート) その他 北米タッグ王座(新日本プロレス版) : 1回(w / ジョニー・パワーズ) カナディアン・インターナショナル・タッグ王座 : 5回(w / レイモンド・ルージョー×2、ピエール・ルフェーブル×3) 逸話 [編集] 非常に人間味のある性格の持ち主。アントニオ猪木が若手時代、サンフランシスコに遠征し、慣れぬ地で孤独を味わっていた頃、パターソンは親身に猪木に話しかけ、知人だった日系の料理人に頼んでスキヤキをご馳走したことがある。パターソン自身もフランス語圏出身で英語に苦労し、孤独を強いられていた頃があったため、猪木の境遇がよく理解できたという。ブッカーとして高い信頼を得ることができたのも、このような人柄によるところが大きい。また猪木自身もそのことを恩義に感じ、後に数度に渡って新日本に彼を招聘し、NWF王座にも挑戦させた。 1979年6月にテッド・デビアスから奪取した北米ヘビー級王座は同年9月にインターコンチネンタル王座と改称され現在に至るが、改称後の同年11月、パターソンは別のベルトを持参し「WWF認定北米ヘビー級王者」として新日本プロレスに来日、坂口征二に敗れ王座を明け渡している[5]。以降、同王座は新日本の管理下に置かれ、坂口はバッドニュース・アレンやドン・ムラコを相手に防衛戦を行った(1981年のIWGP提唱に伴い封印)[6]。 脚注 [編集] ^ “NWA United States Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ “AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ “History of the WWE Intercontinental Championship: Pat Patterson's first reign”. WWE.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1970-1979”. The History of WWE. 2010年4月27日閲覧。 ^ “WWF North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ 『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P160-161(1986年、ベースボール・マガジン社) PR |
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