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二瓶 一将(にへい かずまさ、1965年5月21日 - )は、日本のプロレスラー、実業家。喧嘩プロレス二瓶組所属。東京都出身。二瓶組長のリングネームも使われる。
目次 [非表示] 1 人物 2 得意技 3 脚注 4 関連項目 5 外部リンク 人物 [編集] ヒクソン・グレイシーの「400戦無敗」という記録に対し「そんな喧嘩なら俺、500戦は無敗だよ」としている。 学生時代に同級生の笹崎伸司(引退)と新日本プロレスに入門直訴したこともあるという二瓶組長は、一時、テレビや映画の悪役スタントマンとして活躍していたが、たまたま訪れた屋台村プロレスの会場で、レスラーへの情熱が再燃。1996年4月にもシュートな喧嘩を売ったこともあった[要出典]。一躍、その名をマット界に知らしめたのは、天龍源一郎とのタッグだった。 現在はリングから離れ風俗店を経営している。過去、暴力団を名乗って先輩レスラーの折原昌夫をナイフで脅して逮捕された。新聞報道によると女子マネージャーダイアナが、折原と交際したことに腹を立て、電話で「おれは普通のレスラーじゃない、ヤクザをなめるな」などと脅し、横浜文化体育館の控え室で、この団体のレスラーらに仲間数人と暴力を振るったうえ、刃物で脅したとされる。以来、テレビなどメディアへの出演はなくなっている。 また、暴力団風のルックスはキャラクターとされてきたが、FMWの川崎球場大会では収監中の暴力団組員の実名河西克彦の名が書かれたTシャツを着てリングに上がり「この試合を兄弟分に捧げる」と語ったり、二瓶組のプロレス興行では観客の大半が本物の暴力団組員と見られる者ばかりだったりしたことから、暴力団との深い関係が囁かれている。前出の河西克彦は川崎市内で起きた暴力団の抗争事件で逮捕された稲川会系暴力団幹部で、二瓶と同じ川崎市幸区在住と報じられている。 自称喧嘩500戦無敗としているが、実際に喧嘩をしたのが確認されたのは逮捕された事件一度のみという皮肉な逸話になっている。屋台村プロレス時代は「元極真空手」や「佐藤ルミナの練習仲間」などを自称していたが、そうした事実はない。 2007年2月11日の歌舞伎町クラブハイツ大会にて復帰しているが、試合をするのは年に1度ぐらいのゲスト出場程度。 2010年2月には、東京・両国でちゃんこ鍋屋『ワールドちゃんこ朝青龍』を経営する「SUMO ZONE株式会社」の代表取締役社長に就任したが、同年5月には同店の店名にもなっている元横綱・朝青龍から契約違反だとして名義貸し契約の中止及びそれに伴う店名の変更を求められるなどの問題が生じている。朝青龍側は「2009年7月末までに海外に出店するという契約条件が守られていない」と主張しているのに対し、二瓶は「米国の景気が悪いので出店を見送っている」「相手側と時間をかけて話し合うつもり」と語っており、両者の主張は平行線をたどっている[1]。同年12月には朝青龍側が契約違反を理由に損害賠償を求める訴訟を東京地方裁判所に起こしていたことも明らかになっている[2]。 得意技 [編集] 極道チョップ 喧嘩キック 仁義ラリアット PR |
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成瀬 昌由(なるせ まさゆき、男性、1973年3月15日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家。東京都杉並区出身。
目次 [非表示] 1 来歴 2 人物 3 新日本プロレス時代の略歴 4 得意技 5 テーマ曲 6 戦績 7 獲得タイトル 8 脚注 9 関連項目 10 外部リンク 来歴 [編集] 科学技術学園高校時代に空手部で空手を始め、松涛館空手で初段を獲得。1991年、前田日明主宰のリングスの第一回新人テストに合格し入門、1992年8月16日、有明コロシアムでの山本宜久戦でプロデビュー(対戦相手の山本も同日デビュー)。軽量級ながら、空手仕込みの打撃と、前田直伝の関節技を武器に体格差のある相手と対戦。1993年頃盛んに開催されたリングス「実験リーグ」では、名勝負を数多く製造し、「実験リーグ男」の異名を取った。 1997年、リングス軽量級王者を決める「トーナメント21」で優勝し、初代王者に君臨。以後、2度の防衛を果たした(2001年2月に返上)。しかし、度重なるケガに悩まされ、欠場と復帰を繰り返し、1999年6月24日の金原弘光戦を最後に椎間板ヘルニアのために長期欠場を余儀なくされる。手術とリハビリの末、2001年3月20日、リカルド・フィエート戦で1年9か月ぶりに復帰。KOKルールとなってから初の試合となったが、アンクルホールドで一本勝ちを納める。 同年5月に山本宜久と共にリングスを退団。その後は新日本プロレスに主戦場を移す。7月20日の札幌ドーム大会で行われたIWGPジュニアヘビー級選手権での田中稔戦で初参戦を果たし、この試合に勝利してIWGPジュニア王座を獲得。しかし10月8日の東京ドーム大会の石澤常光戦で開始26秒で敗れ王座を失う。以降は本格的に参戦を果たし、ジュニア戦線で活躍。後に「無差別級」を合言葉にヘビー級とも渡り合った。2002年に正式に入団。2004年11月、リングス時代の先輩長井満也とアジアタッグ王者となり、以後2度の防衛を果たした。 2006年1月、新日本を退団しフリーになった[1](現在はインストラクターや総合のセコンドなどプロレス以外の仕事をしている)。 総合格闘技では、フリー参戦の2001年から新日本選手の参戦に際し、その練習パートナーとして常に帯同。永田裕志、ケンドー・カシン、安田忠夫、獣神サンダー・ライガー、矢野通、ブルー・ウルフ、ジョシュ・バーネットといったメンバーの練習や本番のセコンドに就き、徹底したバックアップを行った。これは当時新日本にセコンドを務められる人材が非常に不足していたため、リングス時代の長い経験を持つ成瀬が多くセコンドに付いている。自らも、2003年12月31日のK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!でK-1の大巨人ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦。身長差38cm、体重差50kgのハンデをひっくり返し、チョークスリーパーで一本勝ちを納めている。なぜかこの時は同日参戦した新日本選手の中で唯一の勝利者であったにもかかわらずリングスのバスタオルを掲げていた。また、新日本プロレスの総合ルールULTIMATE CRASHルールの作成にも携わった。 人物 [編集] ファンクラブがあり、不定期に「成瀬教室」と言う運動セミナーを開いている。 2009年3月22日のNHK大河ドラマ「天地人」第12話に出演。「チョイ役」ではあるが役者デビューを果たした。 株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約。 新日本プロレス時代の略歴 [編集] 2001年7月20日、札幌ドームでの田中稔戦に初登場。IWGPジュニアヘビー級選手権として行われたこの試合で勝利し、第40代IWGPジュニア王者となった。以後1度の防衛を果たした。 2001年10月8日、東京ドームでのケンドー・カシン(この時は素顔で登場)とのIWGPジュニアヘビー級選手権に王者として参戦。26秒跳びつき腕ひしぎ逆十字固めに敗れ王座陥落。 2001年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2001に参戦したケンドー・カシン、永田裕志、安田忠夫のセコンドに(それ以前に、永田、ドン・フライの総合特訓にも帯同している)。安田の勝利に貢献。 2002年1月、新日本プロレス入団。 2002年6月7日、フリー参戦していたバス・ルッテンと対戦。KO負けを喫した。 2002年8月29日、当時大阪プロレスに所属していた村浜武洋と対戦。時間切れ引き分けに終わる。 2002年10月14日、佐々木健介退団騒動によって空席となった村上和成(当時は村上一成)の対戦相手に立候補し、東京ドームの新日本VS外敵軍7番勝負の第3戦に登場。黒のオープンフィンガーグローブを着けた村上に対抗して青色のグローブを着けて試合に臨むが、敗北を喫した。 2002年11月30日、獣神サンダー・ライガーのパンクラス参戦のセコンドに。 2002年12月、ヒート派と反ヒート派の抗争でヒート派に組する。 2003年1月、東京ドーム大会後、右肩の手術の為欠場。その間にULTIMATE CRASHルール作成に携わり、また同大会の運営に関わる。 2003年6月13日、鈴木みのるの新日本復帰戦に自ら名乗りを挙げ、日本武道館で対戦するも敗戦。試合後、魔界倶楽部星野総裁に魔界マスクを手渡される。また、この戦い以後、鈴木とのタッグを組まれることが多くなった。 2003年7月、執拗な魔界倶楽部の勧誘に遭う。同時に当時魔界5号を名乗っていた長井満也との抗争が勃発した。この抗争は2年近くに渡り、幾度かのタッグ結成を経て両者の退団まで続いていた。8月には成瀬にそっくりな覆面レスラー「スズキくん」が現れる。 2003年8月31日、矢野通、飯塚高史のパンクラス参戦のセコンドに。 2003年11月、成田空港でアントニオ猪木にINOKI BOM-BA-YE 2003参戦を直訴。 2003年12月31日、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!でヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦。勝利。 2004年1月4日、安田忠夫と対戦し、開始30秒スリーパーホールドによりレフェリーストップ勝ち。 2004年1月28日、棚橋弘至の持つIWGP・U-30無差別級王座に挑戦するもドラゴン・スープレックス・ホールドにより敗北。 2004年3月28日、獣神サンダー・ライガーの持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗北(GHC王座が初めてNOAH以外の団体でタイトルマッチを行った試合)。 2004年5月22日、ブルー・ウルフのK-1 ROMANEX参戦のセコンドに。 2004年9月19日、アントニオ猪木の命令で、垣原賢人、長井満也、柳澤龍志、中邑真輔と共に北朝鮮で行われた第1回国際武道大会に参加。エキシビションマッチで垣原と対戦した。 2004年10月、真壁刀義と下克上宣言を行う。 2004年10月23日、ブラジルで行われたJungle Fight 3に参戦。トニー・ウィリアムスに勝利。 2004年10月31日、ジョシュ・バーネットのPRIDE参戦のセコンドに。 2004年11月3日、抗争を続けていた長井満也と組み、天龍源一郎、渕正信の所持していたアジアタッグ王座に挑戦(7月26日にも挑戦したが奪取失敗)。勝利し、第77代アジアタッグ王座となった。その後、2度の防衛に成功し、2005年2月2日にベルトを失う。 2004年11月13日、「闘魂祭り」でのハッスル軍による新日マットでのハッスルポーズを阻止。小川直也にチョップを叩き込む。リング上で「今日は『闘魂祭り』。ハッスルしていい場じゃない。」とアピールした[2]。 2005年1月4日、アルティメットロワイヤルに登場。1回戦でロン・ウォーターマンと対戦するが、パワーボムからのマウントパンチでレフェリーストップ負け。 2005年、度重なるケガにより欠場と復帰を繰り返す。下克上宣言を行った真壁刀義、矢野通がBNJ(ブラックニュージャパン)に加入するとこれと争う。長州力が現場監督に就任すると、ケガも重なって試合数が激減した。 2006年1月、契約更改せずに新日本を退団し、フリーランスとなった[1]。 得意技 [編集] リングスで培った打撃と関節技を主体として試合を作る。 クレイジーサイクロン(バックブロー) リングス時代からの必殺技。掌打の形でのバックブロー。 ナルセロック(変形のクロスフェイス) ガードポジションからの三角絞めの体勢から腕を奪いサイドに移り、相手の片腕を極めた状態でフェイスロックを決める。 コピィロフクラッチ(膝十字固めからの丸め込み) ほんのごくわずかな期間しか使わなかった幻の技。アンドレイ・コピィロフに教わったと言う。 スリーパーホールド リングス時代に前田日明に教わった技。この技で、ノルキヤ、安田忠夫と言った大型レスラーを数多く仕留めてきた。 キャプチュード 師匠前田譲りのスープレックス。 アキレス腱固め ギロチンチョーク ミティアーストリーム 変形のラ・マヒストラル K・S・K カナディアン・デストロイヤーと同型 テーマ曲 [編集] 自分が大好きだと言うB'zの曲を数多く使用。前田日明の話では、本人たちからの使用許可を貰っているそうである。 THE GAMBLER(リングス時代) ultra soul(新日本時代) IT'S SHOWTIME!!(同上) F・E・A・R(同上) ギリギリchop(同上) さまよえる蒼い弾丸(同上) Jap The Lipper(同上、実は稔も同じ曲を使用していた時期あり) Real Thing Shakes(同上、やはり稔も使用時期あり) |
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浪口 修(なみぐち おさむ、1980年8月30日 - )は、日本のプロレスラー。福岡県北九州市出身。現在はフリー、以前はZERO1に所属していた。テーマ曲は「どっこい大作」のテーマ→「星空のディスタンス」(アルフィー)。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 タイトル歴 4 外部リンク 来歴 [編集] 2年間練習生を務めるもなかなかデビューできず。2003年11月7日、金村キンタローと大流血のデビューを果たした。 スペルクレイジーを師匠にルチャのムーブを覚え、ますます波にのる。2004年12月の打ち上げ興行で、不動力也から生涯初のピンフォールを奪う。2005年8月24日、WWA世界ジュニア・ライトヘビー級選手権にてフェロッソよりドリームキャッチにて勝利し、見事チャンピオンとなるも、同月31日、奮闘むなしく中嶋勝彦のジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れ王座陥落。現在も高西翔太にフォールを奪われる、プロレスリング・ノア所属の若手・青木篤志に良いところ少なく連敗するなどスランプが続いている。 2007年5月6日、日高郁人と組んでディファカップの3位だったが、その3位の盾をヘラクレスオオ千賀に取られてしまい、8月23日に髪の毛をかけた試合に挑んだが敗北し坊主になった。 2009年10月24日、後楽園ホール大会に於いてデビュー戦の相手である金村キンタローとのハードコアマッチを最後に引退した。 2009年12月27日、地下プロレス団体「EXIT」のメイン、高岩竜一&ジョータvs梅沢菊次郎&浪口修で復帰、ミルホンネットでその様子が掲載された。 2010年8月10日、東京愚連隊自主興行、田島久丸&南野たけしVS菅原拓也&浪口修よりプロレスラー正式復帰、記者会見では今後フリーとして新日本やノアへの参戦を希望した。 得意技 [編集] 浪口落とし 雪崩式の高角度前方回転エビ固め。メキシコ修行後に使い始めた。 ドリームキャッチ コーナートップからの回転エビ固め。 ジャーマンキラー 対中嶋勝彦の秘密兵器。わざと相手にバックをとらせ、木戸クラッチのようにゴロンと丸め込む。 デラックスボンバー 相手の体を旋回させながら相手の背中をマットへ叩きつける。ディーロブラウンのカミカゼと似た技。 タイトル歴 [編集] WWA WWA世界ジュニア・ライトヘビー級王座 : 1回 |
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平井 伸和(ひらい のぶかず、男性、1969年12月30日 - )は、日本のプロレスラー。東京都目黒区出身。血液型はA型。
SWS所属として1991年4月25日にデビュー。SWS崩壊後はWAR等で活躍し、現在は全日本プロレスで戦っている。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 ヒールターン 2 得意技 2.1 凶器攻撃 3 タイトル歴 4 入場テーマ曲 5 特記 6 エピソード 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] 1990年7月、SWSの入門テストに合格し、第一期の練習生となった。 1991年4月25日、畠中浩戦でデビュー。天龍源一郎率いるレボリューションで活動。 1992年、SWSが崩壊。WARに参加する。 1994年、WAR代表として新日本プロレスのヤングライオン杯に出場し、徐々に頭角を現す。WWF(現WWE)のマニアツアーにも参加した。 1997年10月、WAR世界6人タッグ を獲得。 1998年、WARが所属選手を解雇。フリーとなりIWAジャパンに参戦。 2000年1月7日、全日本プロレスに初参戦。その後、フリー活動を終えて全日本に所属する。 2004年末、荒谷望誉と世界最強タッグ決定リーグ戦に出場するも、リーグ戦全敗で終わる。 2005年1月3日、渕の提案により同じくリーグ戦全敗の本間朋晃&諏訪間幸平(現諏訪魔)と対戦し敗北。渕から「圏外タッグ」の称号を与えられる。 2007年、NOSAWA論外興行でクラッシャー・バンバン・ヒライを復活させる。その後も限定的に使用。また、VOODOO-MURDERSから因縁を付けられることが多くなり、7月のシリーズで近藤修司と抗争。10月18日の代々木体育館大会ではTARU&近藤組と対戦する。 ヒールターン [編集] 以降は何事も無かったかのように第一試合での暖め役となっていたが、2008年10月11日後楽園ホール大会、第四試合にブードゥーマスクとして乱入。まさかのVOODOO-MURDERS入りとなりヒールターン。 2008年11月3日、リングネームをヘイトに変える。黒いフェイスペイントに専用の椅子と、ミスター・ナチュラルヒールと形容されるその姿は以前の圏外タッグと評されたその時とはかなり様変わりしている。 2009年10月25日、カズ・ハヤシの持つ世界ジュニアヘビー級王座へ挑戦(85kgまで減量)したが敗北。 得意技 [編集] ヒライエンド 下記ヒライボトムの後相手の上体を起こし、横十字固めに移行する。平井のテクニックがうかがえる丸め込み技。間違われやすいが、ロック・ボトムからの一連の流れをヒライエンドという。 ヒライボトム ザ・ロックのロック・ボトムと同じ。 WARスペシャル 師匠であった天龍源一郎の技。自ら開発した裏WARスペシャル(変形羽折り固め)も好んで使用する。 横入り式エビ固め エクスプロイダー これでも食らえっ! 見得を切ってからのランニング・ニーバット。ヒールターン前はお客さんと大合唱してから行う技だった。 セクシームーンサルト 大一番用の大技。コンディションが良いときにたまに使うことがある。 ダイビング・エルボー・ドロップ 元来、頻発していた技だが、ヒールターン後から「特製サポーター」を当てての攻撃となった。荒谷に食らわせたのが初披露である。 凶器攻撃 [編集] イス攻撃 入場時に「平井」と書かれた赤と黒のカラーのイスを持って入場してくる。そのイスによって相手を攻撃する。 消火器攻撃 試合中、どこから出したか判らない消火器によって攻撃する。カズ・ハヤシや鈴木みのるなどが主な犠牲者。中身は猛毒が入っているという設定。噴霧後は鈍器として使用する。 タイトル歴 [編集] WAR世界6人タッグ 第15代…パートナーは北尾光司、望月成晃。 入場テーマ曲 [編集] 初代:「Revolution」 二代目:「スピード」 三代目:「ファッキンガム宮殿」 特記 [編集] プロレスラー「ミツ・ヒライ」の実子である。 全日本での地位はバイプレーヤーである。 荒谷望誉との「圏外タッグ」は開店休業状態だが、平井も前座に起用されることが多い。 ヒールターンについて、TARUからは、「北尾光司以上のナチュラルヒール」と評され、カズ・ハヤシとはブログ、日記で舌戦を繰り広げる。「マンネリ化していたので新鮮味があって良いのでは?」という意見もある。 エピソード [編集] ブログによると、中日ドラゴンズの熱狂的なファンのようである。 |
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船木 誠勝(ふなき まさかつ、男性、1969年3月13日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家、俳優。プロレスラーとしては全日本プロレス、総合格闘家としてはARMS所属。
若手時代は本名でリングに上がっていた。バツイチで再婚、現在の妻は元舞台女優、喜山いづみ。弘前大学教育学部附属中学校卒業。 完全実力主義を標榜するプロレス、総合格闘技団体であるパンクラスを設立し、自らエースとして第一線で活躍した。2000年の引退後も運営や方向性の面で積極的な寄与を行う。俳優業や、HERO'S等格闘技番組のコメンテーター等で活動し、かつて絶縁宣言をした前田日明との関係を復活させた。2005年9月には前田の前で、プロレス復帰を匂わせていたが2006年2月で立ち消えとなった。詳しくは後述。 ケン・シャムロックから影響を受け、「ハイブリッド・ボディ」と呼ばれるナチュラルな肉体の鍛錬方法を提唱。これは、レスラーがあるべき食生活とトレーニング方法を述べたもので、後に書籍、ビデオとしてまとめられた。またコロシアム2000の際、対戦相手のヒクソン・グレイシーが練習に取り入れているクンダリーニヨーガ(火の呼吸)を自らも取り入れその後のパンクラスの練習メニューにも行われている。これらのハイブリッド理論は新日本時代にステロイド剤を使用し後遺症に悩まされた経験を糧にしたものである。 目次 [非表示] 1 来歴 2 タイトル歴 3 戦績 4 人物 5 著書 6 出演作品 7 脚注 8 関連項目 9 外部リンク 来歴 [編集] 母子家庭出身。生活破綻者であった父親には今でも激しい恨みを抱いているが、度々映画館に連れて行かれており(敬愛するブルース・リーを知ったのもこの時である)、その頃から映画に興味を持ち、後に自主映画の製作を趣味とするようになる。 新日本プロレスは一度不合格になっているが、高校入学の前日に山本小鉄に気に入られ入団、同期に武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、野上彰(現AKIRA)。日本の男子プロレスとしては当時史上最年少記録である15歳11か月でデビュー(現在の最年少記録は中嶋勝彦の15歳9か月)、26歳で入門した同じヤングライオンの後藤達俊との年齢差が話題になった。 第1次UWFとの抗争では野上彰とのタッグで前座の名勝負を繰り広げ、新日サイドからは次代のエースとして期待された。しかし、1989年に、前田日明、藤原喜明の誘いに応じヨーロッパ遠征中に第2次UWFに入団。このことに関してアントニオ猪木は「プロレスに移籍は無いが、特例で移籍とした」と話している。UWFでは真剣勝負での興行を直訴するが前田ら上層部に時期尚早として却下され、後に理想の団体の設立を盟友鈴木みのると模索するようになる。 1990年12月に第2次UWFが崩壊すると、藤原組の旗揚げに参加。1992年4月19日には東京体育館での藤原組の旗揚げ一周年記念興行でロベルト・デュランと異種格闘技戦を行った(3ラウンド腕固めで勝利)。藤原組のエースとして試合を重ねるも、より格闘技的な路線を志向したために、次第に藤原の志向との溝が深まり、1992年12月に藤原組を離脱した[2]。 藤原組離脱後は、どの団体にも所属せず、鈴木みのる、高橋義生(現高橋和生)らとともに練習を重ね、パンクラスを組織。1993年9月21日、パンクラス旗揚げ戦を行う。船木はメインイベントでケン・シャムロックに肩固めで一本負け。 1996年9月7日、バス・ルッテンの持つタイトル、キング・オブ・パンクラスに挑戦し、KO負け。試合後に「明日また生きるぞ」と発言した。 1996年12月15日、新王者決定トーナメントで近藤有己、ジェイソン・デルーシアを破り第4代キング・オブ・パンクラシストとなった。 1997年4月27日、近藤有己とタイトル防衛戦を行い、腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫しタイトル防衛に失敗した。 1997年12月20日、近藤有己とタイトルマッチを行い、アームロックで一本勝ちを収め王座再戴冠に成功した。 1999年3月1日、長谷川悟史が道場近くのマンションから転落し、骨折に基づく外傷性出血ショックで死去。転落の状況が不自然だとして船木は事情聴取を受けた。 2000年5月26日、「コロシアム2000」にてヒクソン・グレイシーと対戦し、チョークスリーパーで失神負け。試合後のインタビューで「格闘技は勝負は1回だけなので、失神したら終わりですから。潔く足を洗う決心をしました」と発言し、引退を表明した[3]。 2000年9月27日、自身のテーマ曲『船木誠勝〜RED ZONE 引退記念シングル』が発売された。 2000年12月4日、地元青森県で行われたパンクラス「船木誠勝 引退記念興行」で全試合終了後に引退セレモニーが開催され、藤原喜明、佐山聡、藤波辰爾、山本小鉄、獣神サンダー・ライガー、夢枕獏らがリングに駆けつけた。師匠・藤原とお互い涙しながら抱擁しあった。最後は船木の胴上げが行われた[4]。 2005年9月、前田日明がスーパーバイザーを務めるプロレス団体『ビッグマウス・ラウド』旗揚げ戦で、リング上から挨拶、全面協力を宣言した。柴田勝頼を気に入っており、彼と対戦するためにプロレス復帰を匂わせていた。 2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行でビッグマウス・ラウドを脱退。プロレス復帰に関する整合性の指摘に関しては、インタビューなどで総合に戻ることはないと常々断言していたが結局あやふやなままだった。BML脱退後も柴田との関係は続け、2007年3月には「チームARMS」を結成して[5]総合格闘技のできるプロレスラーにするためにコーチしていた。 2007年7月16日、HERO'Sミドル級トーナメント開幕戦において、休憩時間中に前田日明と共にリングに上がると、大晦日の現役復帰を宣言[6]。8月28日の記者会見では復帰戦の対戦相手に桜庭和志を希望し、同席した桜庭も対戦を希望した[7]。同時に船木への批判とともに対戦を要求されていた[8]北岡悟に関しては、「そういう闘いには興味がない」「自分をボコボコにする選手は他にいると思う」などとして対戦拒否した[7][9]。 2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!のメインイベントで桜庭和志と対戦し、チキンウィングアームロックで一本負け。入場時には、ラッセ(ねぶたをモチーフにしたみちのくプロレスの覆面プロレスラー)のマスクを被って姿を現した[10]。 2008年4月29日、DREAM.2のミドル級トーナメント1回戦で田村潔司と対戦し、パウンドでTKO負け。 2008年9月23日、DREAM.6でかつての弟子ミノワマンと対戦し、踵固めで一本勝ち。現役復帰後、初勝利となった。試合後、「やっと復活できました。こんな自分でも、体が使える限り格闘技を支えていきたい」とコメントした[11]。 2009年8月30日、全日本プロレス両国大会でプロレス復帰を果たし、メインイベントで武藤とタッグを組み、蝶野正洋・鈴木みのると対戦。ドロップキックを繰り出したり、トペ・スイシーダを狙おうとするなどの動きを見せた。翌31日に全日本プロレスと1年契約を締結。9月26日、鈴木みのるとシングルで対戦するも鈴木のレフェリー暴行により反則勝ち。 2010年1月3日、武藤と組んで世界タッグ王座王者を奪取。3月21日両国大会で「金網マッチ」で鈴木と再戦し、レフェリーストップによるKO勝利を収めた。 2010年4月、チャンピオン・カーニバルに出場し決勝まで進出したが、決勝で鈴木に敗れ準優勝に終わった(対鈴木戦初の敗北)。 2010年8月30日、1年間の契約満了の更新に際して「継続参戦」とした上で全日本プロレスに正式に所属。 タイトル歴 [編集] 全日本プロレス 第56代世界タッグ王座 (パートナーは武藤) 2009年世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(パートナーは武藤) パンクラス 第4代無差別級キング・オブ・パンクラシスト 第6代無差別級キング・オブ・パンクラシスト 戦績 [編集] 総合格闘技 戦績 53 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 39 勝 4 34 1 0 1 0 13 敗 3 8 2 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 ○ ミノワマン 1R 0:52 踵固め DREAM.6 ミドル級グランプリ2008 決勝戦 2008年9月23日 × 田村潔司 1R 0:57 TKO(レフェリーストップ:パウンド) DREAM.2 ミドル級グランプリ2008 開幕戦 【ミドル級GP 1回戦】 2008年4月29日 × 桜庭和志 1R 6:25 チキンウィングアームロック K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!! 2007年12月31日 × ヒクソン・グレイシー 1R 11:46 チョークスリーパー コロシアム2000 【コロシアム特別ルール】 2000年5月26日 ○ トニー・ペテーラ 1:16 ギブアップ(パウンド) PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR 【パンクラチオン・マッチ】 1999年9月18日 △ エベンゼール・ブラガ 15分終了 時間切れ PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR 【パンクラチオン・マッチ】 1999年4月18日 ○ ジョン・レンケン 5:50 ギブアップ(パウンド) PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 【パンクラチオン・マッチ】 1998年12月19日 × 國奥麒樹真 15分終了 判定(ロストポイント1-0) PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年10月26日 × セーム・シュルト 7:13 KO PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年9月14日 ○ 渋谷修身 6:07 肩固め PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年7月26日 × ガイ・メッツァー 30分終了 判定0-3 PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 【キング・オブ・パンクラス タイトルマッチ】 1998年4月26日 ○ セーム・シュルト 15分終了 判定(ロストポイント0-1) PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年3月18日 ○ 稲垣克臣 2:36 チキンウィングアームロック PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年2月6日 ○ 近藤有己 2:20 アームロック PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 【キング・オブ・パンクラス タイトルマッチ】 1997年12月20日 ○ ジェイソン・ゴドシー 7:12 アンクルホールド PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年11月16日 ○ ガイ・メッツァー 3:58 腕ひしぎ逆十字固め PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年9月6日 ○ 渋谷修身 9:30 フロントチョーク PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年7月20日 ○ ウェスリー・ガサウェイ 1:05 アンクルホールド PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年6月30日 × 近藤有己 15:12 腕ひしぎ逆十字固め PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 【キング・オブ・パンクラス タイトルマッチ】 1997年4月27日 ○ ポール・レイゼンビー 4:36 アームロック PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年3月22日 ○ セーム・シュルト 5:47 アンクルホールド PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年2月22日 ○ ジェイソン・デルーシア 7:49 TKO PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 【キング・オブ・パンクラス新王者決定トーナメント 決勝】 1996年12月15日 ○ 近藤有己 1:43 チョークスリーパー PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 【キング・オブ・パンクラス新王者決定トーナメント 1回戦】 1996年11月9日 × バス・ルッテン 17:05 KO PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年9月7日 ○ 伊藤崇文 2:01 スリーパーホールド PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年7月23日 ○ ヴァーノン・"タイガー"・ホワイト 2:34 アンクルホールド PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年6月25日 ○ オーガスト・スミスル 2:01 チョークスリーパー PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年5月16日 ○ 稲垣克臣 1:14 腕ひしぎ逆十字固め PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年3月2日 ○ 柳澤龍志 8:42 TKO(レフェリーストップ:アームロック) PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年1月28日 ○ 冨宅祐輔 0:31 フロントチョーク PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年12月14日 × フランク・シャムロック 10:31 アンクルホールド PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年11月4日 ○ ガイ・メッツァー 6:46 アキレス腱固め PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年9月1日 ○ リオン・ダイク 1:01 アキレス腱固め PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年7月23日 ○ グレゴリー・スミット 7:30 アキレス腱固め PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年6月13日 ○ アレックス・クック 7:14 ヒールホールド PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年5月13日 × 山田学 4:43 ヒールホールド PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年4月8日 ○ フランク・シャムロック 5:11 ヒールホールド PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年3月10日 ○ ジェイソン・デルーシア 9:08 ヒールホールド PANCRASE 1995 EYES OF BEAST 1995年1月26日 × ケン・シャムロック 5:50 肩固め パンクラス KING OF PANCRASE TOURNAMENT 【キング・オブ・パンクラス・トーナメント 準決勝】 1994年12月17日 ○ ヴァーノン・"タイガー"・ホワイト 5:37 アームロック パンクラス KING OF PANCRASE TOURNAMENT 【キング・オブ・パンクラス・トーナメント 2回戦】 1994年12月16日 ○ ロバート・ヨナサン 2:20 腕ひしぎ逆十字固め パンクラス KING OF PANCRASE TOURNAMENT 【キング・オブ・パンクラス・トーナメント 1回戦】 1994年12月16日 ○ 鈴木みのる 1:51 チョークスリーパー パンクラス 1994 ROAD TO THE CHAMPIONSHIP 1994年10月15日 ○ ケン・シャムロック 2:30 肩固め パンクラス 1994 ROAD TO THE CHAMPIONSHIP 1994年9月1日 ○ スコット・バムバム・ソルビン 0:56 ヒールホールド パンクラス 1994 ROAD TO THE CHAMPIONSHIP 1994年7月26日 × ジェイソン・デルーシア 1:01 膝十字固め パンクラス 1994 ROAD TO THE CHAMPIONSHIP 1994年7月6日 ○ グレゴリー・スミット 1:58 スリーパーホールド パンクラス 1994 ROAD TO THE CHAMPIONSHIP 1994年5月31日 ○ 冨宅祐輔 6:55 スリーパーホールド パンクラス 1994 PANCRASH! 1994年4月21日 ○ ヴァーノン・"タイガー"・ホワイト 1:13 KO パンクラス 1994 PANCRASH! 1994年3月12日 ○ バス・ルッテン 2:58 アンクルホールド パンクラス 1994 PANCRASH! 1994年1月19日 ○ 高橋義生 3:09 TKO パンクラス 1993 YES, WE ARE HYBRID WRESTLERS 1993年12月6日 ○ キース・ベイゼムス 1:42 アームロック パンクラス 1993 YES, WE ARE HYBRID WRESTLERS 1993年11月8日 ○ 柳澤龍志 1:35 膝十字固め パンクラス 1993 YES, WE ARE HYBRID WRESTLERS 1993年10月14日 × ケン・シャムロック 6:15 肩固め パンクラス 1993 YES, WE ARE HYBRID WRESTLERS 1993年9月21日 人物 [編集] 一見クールなイメージだが、激情家の一面を持っており、一度火がつくと後先を考えずに驚くような言動をすることがある。 性格的には熱く燃え上がる一方で、熱が冷めると冷酷に他人と縁を切る傾向があり、ケン・シャムロックとはギャラの支払いなどをめぐって絶縁。パンクラス時代に、鈴木みのるに対しても、専門誌で「もう両雄じゃない、鈴木のことはライバルとは思っていない」と語った。現在、鈴木とは全日本プロレスで激闘を経て、和解し、共闘している。 盟友鈴木みのるとは厚い友情で結ばれていた。新日本の若手時代に鈴木と飲みに行って素人相手に喧嘩をして現行犯逮捕され警視庁麻布警察署に留置された際、このことで鈴木だけが解雇になりそうになったので船木は「鈴木を首にするのなら俺も首にしてください」といって2人で謹慎処分を受けた。 先輩であった獣神サンダー・ライガーとも仲が良く、一緒に骨法を習っていた。 また、ヒクソン・グレイシーとの対戦前に行った須藤元気とのスパーリングの際、須藤のパンチで船木の左眉の辺りをカットしたことで船木が激高し、須藤に何度も蹴りを入れ、その後バットで殴ろうとしたことがある(お互いがパンクラスを退団した後、専門誌で対談するなど深い確執には至らず)。 2度目の王座陥落後に今の妻が所属していた劇団の『旅の途中 〜oh!マイフレンド〜』に主演で出演した(それ以前にも端役で違う劇に出演したこともある)ことがある、また同じ劇に元パンクラスの渋谷修身も出演していた。 俳優業の他、旅番組やバラエティ番組に出演することもある。2007年2月25日放送の「田舎に泊まろう!」(テレビ東京)では、俳優、元格闘家の片鱗を全く感じさせない素朴さを良くも悪くも醸していた(北海道夕張市の理髪店宅に宿泊)。 2003年11月30日、当時低迷していたパンクラスism所属選手に対し、「正直言って、ismはどうしようもない」「来年からismは解散して欲しい」と三行半を突きつけた[12]。この発言に対し、当時道場長を務めていた國奥麒樹真は「改善を進めている」と冷静にコメントした[13]が、伊藤崇文がこれに反発し、2003年12月14日の大会で「パンクラスismは強くなろうとするやつらの集まり。坊主頭からやってんだ。解散なんか、するか。11年目の反撃、しっかり見とけよ。パンクラスismは最後に笑うからな。しっかり見とけよ」とマイクアピールした[14]。最終的にパンクラスismが解散することはなかった。 著書 [編集] 「船木誠勝のハイブリッド肉体改造法」 - シリーズでI、II、IIIとある。基本的にトレーニングによる肉体改造を目的とした本であるが、新しくなるにつれて徐々に掲載されるトレーニングの項は少なくなる。 Iは船木自身の経験から編み出された格闘家としての本格的な筋力トレーニングとパンクラスで行われる実践トレーニングを掲載。それまでの間違った肉体改造についてふれ、プロレスラーとしてあるべきトレーニングを示唆している。掲載されたトレーニングは格闘技を志す者への手引きという形になっている。 IIは一般向けで有酸素運動と基礎的な筋力トレーニングを総合的に行い、生活に便利な体を作る方法を掲載。 IIIはダイエットをしたいが時間がない男性向けに有酸素運動なしの短時間でできる簡単な筋力トレーニングで基礎代謝を上げ、筋肉質な体を作る方法を掲載。 「船木誠勝の格斗誠書」 「船木誠勝の真実」 |
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