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【2025/05/11 12:32 】 |
ダンプ松本
ダンプ松本(ダンプまつもと、1960年11月11日 - )は、日本の女子プロレスラー。タレント。本名・松本 香(まつもと かおる)。
身長163cm、体重91kg、血液型B型。埼玉県熊谷市出身。
両親に家を建ててあげたいという思いから、女子プロレスラーになることを志す。デビュー後の1984年、一番弟子のブル中野らとヒールのタッグチーム『極悪同盟』を結成。翌年にフジテレビで放送されていた『全日本女子プロレス中継』でヒールにもかかわらず人気を博し、クラッシュギャルズ(ライオネス飛鳥と長与千種が当時結成していたコンビ名)との抗争は女子プロレスを大いに盛り上げた。長与千種とは2度にわたり、敗者髪切りデスマッチを行った。
目次 [非表示]
1 所属
2 経歴
3 エピソード
4 テレビ
5 ドラマ
6 CM
7 ゲーム
8 書籍
9 関連人物
10 関連項目
11 外部リンク
所属 [編集]

全日本女子プロレス(1980年 - 1988年)
フリー(2003年 - )
経歴 [編集]

1980年 - 前年の全日本女子プロレス新人オーディションに合格していたが、プロテストに通らず、一時は全女の営業車の運転手をしていた。その後、選手数補強のためようやくプロデビュー。デビュー前から元々体格が良く、ベビーフェイスよりもヒールレスラーになったほうが自分には似合っているし、それならベビーフェイスのファンにとことん嫌われる程にヒールのトップになりたいと当時から考えていたそうで、ダンプ本人の意向を会社に伝えてすぐに悪役軍団入りする。本人はファン時代、ビューティ・ペアのジャッキー佐藤の熱狂的な信者だった。ジャッキーが闘病中には頻繁に見舞いに訪れていたそうで、逝去後には『ダンプは泣き虫で、すぐに大泣きしてうるさいから私の見舞いに来るな!!とよく冗談ながらにジャッキーさんに言われました』と涙ながらにインタビューで語っていた場面が、当時のワイドショーなどで放映された。
1983年 - ブラック・デビルの一員として、(他のメンバーはデビル雅美、タランチェラ、マスクド・ユウ、山崎五紀など)数年間全く芽の出ない前座悪役レスラーの地位に甘んじていたが、1月地元の熊谷市民体育館でライオネス飛鳥の持つ全日本選手権に挑戦。飛鳥の負傷箇所である膝を徹底的に苛め抜き、TKO勝ち。ベルトを強奪する。その後立野記代、山崎五紀を相手に2度の王座防衛に成功するが、6月大宮スケートセンターでリターン・マッチに臨んだライオネス飛鳥にベルトを奪い返される。暮れのフジテレビ杯争奪タッグトーナメントでは、新人の小倉由美と組んで出場。予想通り1回戦で敗退。
1984年 - タランチェラの引退、デビル雅美、山崎五紀のベビーフェイス化を機にデビル軍団と袂を分かち、マスクド・ユウ(のちのクレーン・ユウ)と極悪同盟を結成。その直前に本名の松本香から、ダンプ松本へと改名し、髪を金に染め上げ、顔面に派手なペイントを施すスタイルを確立。前年から人気・実力が急上昇していたクラッシュギャルズの対抗馬として名乗りを上げる。レフェリーの阿部四郎と結託し、反則攻撃の「黙認」やクラッシュギャルズに対する超高速フォールカウントなどの贔屓レフェリングのもとに凶器攻撃を多用する徹底的なヒールファイトを展開し、クラッシュファンの少女たちから、憎悪を一身に浴びる存在に。両チームのわかりやすい戦いの図式が熱狂を呼び、女子プロレスは全国的なブームへと発展していく。極悪同盟のメンバーは、ブル中野・コンドル斉藤・ドリル仲前・影かほるなど。
1988年 - 引退し、タレント、女優として芸能活動を行う。また松本と同期の女子プロレスラーだった大森ゆかりと桃色豚隊(ピンクトントン)というユニットを組み、シングルCD「赤いウィンナー逃げた」を出す。
1998年 - 全日本女子OG興行(「メモリアル・オールスター戦〜あの時、君は強かった!!」 1998年8月14日 川崎市体育館)におけるエキシビションマッチで、一日限りの限定復帰。
2003年 - 本物のヒールを復活させるためとして、新日本プロレスの「魔界倶楽部」に共鳴する形で「極悪倶楽部」を結成。吉本女子プロレスJd'でマネージャーとして現場復帰。その後、古巣全日本女子にて現役選手に復帰、「極悪同盟」を再結成。
2004年 - シャーク土屋の呼びかけに応えてGAEA JAPANに出現し、タッグ戦にてクラッシュ2000(元・クラッシュギャルズ)と対戦。
2006年 - 初の自主興行「極悪血祭り」を新宿FACEで開催。毎回好評で、現在まで定期的に開催されている。
現在もレスラーと芸能活動を両立しながら活躍している。ダイエットにも奮闘中である。
エピソード [編集]

リングネームの「ダンプ」は、本名時代のファイトを観たある客が「あいつ、ダンプみてえだ!!」と口走ったことに由来するとされる。全日本女子プロレスの松永高司会長は、このエピソードを引き合いに出して「スターはお客さんがつくってくれるんですよ」と語ったことがある。
得意技はラリアット。そのパワーを利して喉元にぶち当てる一撃は強烈で、相手が空中で一回転したこともあった。
悪役レスラーとして活躍していた時、アンチファンが実家に押しかけ、「ダンプ出て来い!」と玄関を叩きながら大声で叫ぶ、玄関先にダンプを中傷する張り紙を貼る、窓ガラスを割られる、といった嫌がらせを受けたことが何度もあり、母親に怖い思いをさせてしまったことがあり、そのため一時期悪役レスラーを辞めようかとも考えたが、その当時はまだギャラも少なく貧しかったので、辛い中でも必死で頑張ったという。デビューから丸5年後には、念願の新築一軒家を購入して両親にプレゼントしている。
母親は、リングでの凶行が演技だと知っていても、自分の娘が人様の娘をいたぶる姿に抵抗を感じていたという(スポーツニッポンのコラム「母」でダンプが書いている)。母親が試合会場へ観戦に訪れていた時には、毎回怪我をさせた対戦相手の元に謝罪に訪れていたという(ダンプ自身がテレビ番組で話していた)。
悪党人気が高まった頃、「たこやきラーメン」(日清食品)のCMに出演。CM中でのセリフ「みんな最初は分かってくれないんだ」「マジだぜ!」が話題になる。CMは複数のバージョンが作られたが、その1本では冒頭で、ノーメイクの素顔で明るく「ラーメンに、たこやきが入ったのよ!」と商品をアピールする場面もあり、極悪同盟以前のダンプを知らない視聴者の度肝を抜いた。しかし商品の売れ行きは芳しくなかったため、あまり長く売られなかった。
「クイズ!ヘキサゴン」で、極めて高い正解率を出している。
試合中の奇抜なメイクは、童顔でえくぼが出て可愛く見える事を避ける為で、キッスのメイクを参考にした。
リング上でダンプがよく手にしていた凶器は当初は金属チェーンだったが、振り回した時に自分に当たりそれがとても痛かった為に竹刀に替えた。
試合に呼ばれたゲストタレントを威嚇し絡むのが定番だった。しかしゲストの一人ガッツ石松がそれに対して本気で怒り、殴らんばかりに向かってきた時には内心怖くて逃げ出したかったが、テレビカメラの前だったので平静を装ったという。
試合前の入場時や試合後に控え室に引き上げる際、テレビカメラマンを竹刀で頻繁に攻撃していたのも定番である。その先駆けとなったのは、阿部四郎のカメラマン攻撃。
「ドキッ!!まるごと水着女だらけの水泳大会」では、毎回クライマックスの騎馬戦でいわゆる「ポロリ要員(AV女優など)」のビキニのブラを剥ぎ取るのがお約束だった。1989年の大会では「今回はアイドル(の水着)をひん剥く」と宣言した。もっとも、実際にはダンプを乗せた騎馬が近づくだけでアイドル達は逃げ回り、脱がされたのはいつも通りのポロリ要員だった。高所恐怖症で高さ10mの飛び込み台からプールへ飛び込めず号泣したことがある。
リング上ではヒール役に徹するが、リングを降りれば、素はとても涙もろくて人情味溢れる性格であり人望も厚い。全女OGや極悪同盟時代のメンバー、レスラー仲間の他にも芸能人、一般人の親友や友人も数多く交友関係が幅広い。コンドルの証言によればベビーフェイス、ヒールと分け隔てなく後輩たちの面倒見がとても良かったそうで、全女所属時は極悪同盟メンバーだけでなく、ベビーフェース側にもダンプを慕う者が多かったという。現在でも全女時代の先輩、同期、後輩のOGのみんなととても仲が良いとダンプ自身語っているが、中でも特に先輩のジャンボ堀や同期の大森ゆかり、後輩の工藤めぐみなどとは公私共に親交が深い。後輩の山崎五紀などからも、『ダンプちゃん』とニックネームで呼ばれている。
ブルやコンドル、北斗晶などが、先輩のしごきに耐えられず地方興行中に脱走したことがあった。全女の寮へ戻った彼女たちが、先輩たちに見つからないように隠れていたところ、ダンプに見つかってしまった。叱られると思い言葉を失う彼女たちにダンプは「おかえり。心配しなくても大丈夫だからね」と優しく声をかけ、思わず抱き合って泣いてしまったという。リング外におけるダンプの人情味がある人柄を示すエピソードといえる。
北斗のプロレス雑誌でのインタビュー証言によれば、全女絶頂期にはデビル雅美とダンプの2大派閥があり、北斗自身はダンプ派に属していた。ダンプは若手時代の北斗をとても可愛がり、北斗も姉のように慕っていたという。
デビュー前から中村雅俊の大ファンで中村の事を『雅俊さま』と呼んでいて、全女時代に対談で初めて中村本人に逢えたときには、感動して感極まり号泣してしまった、と本人がテレビ番組で語った。自宅にはサイン入りの2ショット写真のパネルが飾られている。
家族のために家計を助けたいという思いでレスラーになったダンプだが、後年大森ゆかりとのインタビューの中で、彼女の母親は、怪我などの危険が伴うため、プロレスラーになることだけは以前から大反対だったと告白している(反対に大森の両親は、大森が家の米袋があっという間に無くなるほどの大食いだったため大賛成だったという)。
凶器を多用した試合内容の反面、危険度の高い技の使用を控えている。プラム麻里子の試合中の事故の際、マスコミに対して「最近危険な技が増えてきていて、いつも危ないと思うことがある。いくら体は鍛えれても頭だけは鍛えることができない」と涙ながらに応えていた。
テレビ [編集]

オレたちひょうきん族(フジテレビ)
オールナイトフジ延長戦(1988年、フジテレビ)
徹子の部屋(テレビ朝日)
笑っていいとも! テレフォンショッキング※ゲスト(フジテレビ)
一枚の写真(フジテレビ)
ライオンのごきげんよう(フジテレビ)
午後は○○おもいッきりテレビ(日本テレビ)
ゆうどきネットワーク(NHK)
松本伊代のキラキラ80's(MONDO21)
激変!ミラクルチェンジ(TBS) (2010年11月17日) - ダイエットに挑戦。約3ヶ月で115kg→91kgの減量に成功。
ドラマ [編集]

毎度おさわがせします(1985年1月 - 1985年3月TBS)
夏・体験物語(1985年8月 - 1985年9月、TBS)
毎度おさわがせしますII(1985年12月 - 1986年3月、TBS)
夏・体験物語II(1986年7月 - 1986年10月、TBS)
結婚してシマッタ!(1988年、TBS)
木曜ゴールデンドラマ「マルタの女」(1)(2)(1988年、1989年、YTV)
水曜グランドロマン「懲りない女たち(1)」(1988年、NTV)
明日はアタシの風が吹く(1988年、NTV)
いけない女子高物語(1990年、NTV)
社長になった若大将(1992年、TBS)
CM [編集]

日清食品 「タコヤキラーメン」
ラーメンの具として、たこ焼き3個が入っている。
アルペン 松本典子と共演
ジュピター宝飾(東海地区ローカル)
ゲーム [編集]

セガ「極悪同盟ダンプ松本」
アーケード向け及びセガ・マークIII用のプロレスゲーム。
書籍 [編集]

「ダンプ松本のマジだぜ!」集英社 (1986年1月)
「なんたって乙女の底力」スコラ(1988年4月)大森友伽里との共著
「私じゃダメかい!!」ビクター音楽産業 (1988年7月)
「どんとこい芸能界!―極悪ダンプの芸能界毒舌言いたい放題! 」日本文芸社 (1989年5月)
「おかあちゃん!」主婦と生活社 (1991年5月)
「長女はつらいよ―だけど、元気もりもり」同文書院 (1994年2月)
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【2011/01/03 01:04 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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