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レイ・トレイラー(Raymond W. Traylor, Jr.、1963年5月2日 - 2004年9月22日)は、アメリカ合衆国ジョージア州出身のプロレスラー。
現役選手時代は、主に米国ではビッグ・ボスマン(Big Boss Man)、日本ではビッグ・ブーバー(Big Bubba)などのリングネームで活躍した。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] 刑務所の看守を経て、1985年にプロレスラーとしてデビュー。1986年夏、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に、ビッグ・ブバ・ロジャース(Big Bubba Rogers)のリングネームで登場。黒スーツにソフト帽、サングラスという出で立ちで、悪徳マネージャーのジム・コルネットのボディーガードを務める。服を着たまま試合を行うスタイルが注目を集め、1987年にはミッドサウス・エリアでワンマン・ギャングやスティーブ・ウィリアムスと抗争。1988年3月には全日本プロレスにビッグ・ブーバーの名前で初来日し、ブルーザー・ブロディのパートナーにも起用された。 帰国後、WWF(現・WWE)と契約。服を着て戦うギミックはそのままに、元刑務官というキャリアのもと、制服姿の「暴力看守 ビッグ・ボスマン」に変身する。スリックをマネージャーに、警棒と手錠を凶器に用いる巨漢ヒールとしてハルク・ホーガンやダスティ・ローデスと抗争を展開した。また、ワンマン・ギャング改めアキームとツイン・タワーズ(Twin Towers)なる超巨漢コンビを結成してタッグ戦線でも活躍。メガ・パワーズ(ホーガン&ランディ・サベージ)、デモリッション(アックス&スマッシュ)、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)などのチームと激闘を繰り広げた。 その後、大幅なウエイトダウンに成功したことを機に、1990年よりベビーフェイスに転向。権力を笠に着た悪徳看守から法と秩序を守る正義の刑務官へのキャラクター・チェンジを果たし、かつての仇敵ホーガンの相棒となってテッド・デビアスやアースクエイクらと抗争。ザ・マウンティーとの警官対決や、ネイルズとの「看守vs囚人」の遺恨試合などでも観客の声援を集めた。 1993年にWWFとの契約が終了。同年7月、全日本プロレスにビッグ・ブーバー名義で5年ぶりの再来日。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にもスティーブ・ウィリアムスとのコンビで参加した(WWF在籍中には1990年4月13日、東京ドームで行われた日米レスリングサミットにも来日している。当時すでに本国ではベビーフェイスに転向していたが、日本ではヒールとしてジェイク・ロバーツと対戦した)。 1994年、WCWと契約。当初はザ・ボス(The Boss)をリングネームにWWF時代と同じギミックを使っていた。しかしWWF側のクレームを受け、法の番人というキャラクター・コンセプトはそのままに、ガーディアン・エンジェル(Guardian Angel)に改名。ベイダーなどと抗争するがブレイクには至らず、ヒールターンしてNWA時代の用心棒ギミック、ビッグ・ブバ・ロジャースに戻る。1995年3月19日のPPV "Uncensored" ではスティングからフォール勝ちを収め[1]、同年9月には新日本プロレスに来日した。翌1996年にはnWoに加入。その後nWoを脱退して再びベビーフェイスに戻り、本名のレイ・トレイラー(Ray Traylor)を名乗ったが、WWF時代のような活躍を果たすことはできなかった。 1998年10月12日、突如WWFに復帰し、"悪のオーナー" ミスター・マクマホンのボディーガードとしてRaw is Warに登場。リングネームはかつてと同じくビッグ・ボスマンだが、ブルーの看守服ではなく黒ずくめのSWATスタイルに変身し、マクマホン率いるコーポレーションの一員となりストーン・コールド・スティーブ・オースチンやD-ジェネレーションXと抗争する。同年12月14日にはケン・シャムロックとのコンビでニュー・エイジ・アウトローズからWWF世界タッグ王座を奪取[2]。その後もマンカインドやアル・スノーを破りハードコア王座を4回に渡って獲得し[3]、1999年にはビッグ・ショーとスーパーヘビー級の抗争を展開、2000年はブル・ブキャナンとの暴力看守コンビで活動した。その後しばらく怪我で欠場を続け、2001年末にブッカー・Tの用心棒役で現場復帰。以降はWWFの下部団体OVWで若手選手のコーチなどを務めていたが、2003年にWWFを解雇された。 2004年8月31日にはIWAジャパンの10周年記念興行に来日し、IWA世界王座争奪トーナメントに出場。WWE〜WCWを通しての宿敵であり盟友でもあるジム・ドゥガンと決勝を争った。帰国後の9月22日、ジョージア州ポールディング郡ダラスの自宅にて心臓発作のため死去[4]。41歳没。 得意技 [編集] スクラップ・バスター ビッグ・ブート アッパーカット 獲得タイトル [編集] UWF世界ヘビー級王座:1回(1980年代後半にビル・ワットが主宰していたミッドサウス地区の団体の王座)[5] WWF世界タッグ王座:1回(w / ケン・シャムロック)[2] WWFハードコア王座:4回 [3] PR |
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ビッグ・ジョン・スタッド(Big John Studd、1948年2月19日 - 1995年3月20日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州バトラー出身。本名はジョン・ウィリアム・ミントン(John William Minton)。
目次 [非表示] 1 来歴 2 エピソード 3 得意技 4 獲得タイトル 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] カンザス州立大学卒業後、プロフットボール球団を経てキラー・コワルスキーに師事。1972年にコワルスキーの縁故により、ニューヨークのWWWF(現・WWE)でチャック・オコーナー(Chuck O'Connor)のリングネームでデビュー。その後、インディアナポリスのWWAに参戦。1976年3月13日、オックス・ベーカーとのコンビでディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを破り、WWA世界タッグ王者となる[1]。王座陥落後はニューヨークに戻り、黒覆面のマスクマン、ジ・エクスキューショナー2号(The Executioner #2)に変身して1号のコワルスキーと「ジ・エクスキューショナーズ」を結成、同年5月11日にWWWF世界タッグ王座を獲得した[2]。 1977年からはキャプテンUSA(Captain USA)なる覆面レスラーとしてテキサス州のダラス地区に登場し、ブルーザー・ブロディからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取する[3]。その後は素顔に戻り、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区でビッグ・ジョン・スタッドと改名。1978年にはリック・フレアーをパートナーにリッキー・スティムボート&ポール・ジョーンズを破りミッドアトランティック・タッグ王座を獲得した[4]。以降も同地区に超大型のヒールとして定着し、ケン・パテラとのタッグやブラックジャック・マリガンとのスーパーヘビー級抗争などで活躍。マスクド・スーパースターの相棒となって再び覆面を被り、マスクド・スーパースター2号(Masked Superstar #2)を名乗ったこともある[5]。 1980年にはAWAに進出し、クラッシャー・ブラックウェルとの巨漢コンビでグレッグ・ガニアとジム・ブランゼルのハイ・フライヤーズと抗争。同年10月には全日本プロレスに初来日している。1981年からはジョージア(ジム・バーネット主宰のGCW)、フロリダ(エディ・グラハム主宰のCWF)、ルイジアナ(ビル・ワット主宰のMSWA)など南部一帯の各プロモーションを転戦。フロリダではブルーザー・ブロディとも共闘し、同地区のヒーローだったダスティ・ローデスを大いに苦しめた[6]。 1983年よりWWFと再契約し、フレッド・ブラッシーをマネージャーに当時のWWF王者ボブ・バックランドに挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとの大巨人対決もドル箱カードとなった。同年には新日本プロレスのIWGPリーグ戦第1回大会にアメリカ代表として再来日。リングネームはそのままだが、なぜか覆面を被りマスクマンとして試合を行った(当時スタッドはWWFでアンドレと抗争中であり、日本で両者がタッグを組んでいる写真などがアメリカで報道されることを危惧したためといわれている)。 以降も新日本の常連外国人として度々来日し、IWGPリーグ戦には1984年の第2回大会にも連続出場している。この第2回大会はWWFでのスケジュールのため序盤のみの参加だったが(公には怪我による途中帰国とされていた)、開幕戦ではマスクド・スーパースターとの「マスクド・スーパースターズ対決」が行われている(結果は両者リングアウト)。 1984年からはビンス・マクマホン・ジュニアによるWWFの全米侵攻がスタートし、スタッドも主力メンバーの一人として全米サーキットに参加。ボビー・ヒーナンを新しいマネージャーに付け、新WWF王者ハルク・ホーガンと各地で対戦した。アンドレとの抗争も継続させ、1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会では1万5千ドル争奪のボディスラム・マッチを行っている。 以降もキングコング・バンディとの超大型コンビでタッグ戦線でも活躍したがタイトル奪取の機会には恵まれず、1987年からしばらくリングを離れ映画界に進出。1988年の後半にベビーフェイスとしてWWFに復帰し、1989年1月15日のロイヤルランブルでは優勝を飾ったが、全盛期のような活躍は果たせず徐々にフェードアウトしていった。 1995年3月20日、ホジキンリンパ腫による悪性腫瘍のため死去[7]。47歳没。2004年には長年の功績を称え、WWE Hall of Fameに迎えられた。 エピソード [編集] 怪物的な巨体と強面の持ち主だが、素顔は温和な好人物で知られており、新日本プロレスへの来日時もミスター高橋や田中秀和ら関係者は一様にスタッドの人柄を称えていた。 その一方、腕っぷしの強さも認められており、ブラックジャック・マリガンやブルーザー・ブロディもスタッドには一目置いていたという[8]。 引退後は何人かの若手レスラーの育成も手掛けている。新日本の留学生だった巨漢のロン・リースもその一人で、後にリースはWCWで「ビッグ・ロン・スタッド」を名乗ったことがある[9]。 2004年の殿堂入り式典には息子のジョン・ミントン・ジュニアが亡父に代わって出席した。父親同様の巨体の持ち主であり、WWEデビューを目指してタフイナフの第4シーズン(100万ドル・タフイナフ)にも参加したが、予選落ちとなっている。 得意技 [編集] クローズライン ベアハッグ バックブリーカー エルボー・ドロップ パイルドライバー エアプレーン・スピン ハンマー・パンチ 獲得タイトル [編集] チャック・オコーナー WWA世界タッグ王座:1回(w / オックス・ベーカー) ジ・エクスキューショナー2号 WWWF世界タッグ王座:1回(w / ジ・エクスキューショナー1号) キャプテンUSA NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回 NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / ブル・ラモス) ビッグ・ジョン・スタッド(マスクド・スーパースター2号*) NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回 NWAハワイ・タッグ王座:1回(w / バディ・ローズ) NWAミッドアトランティック・タッグ王座:4回(w / リック・フレアー、ケン・パテラ、マスクド・スーパースター1号*、ロディ・パイパー) NWAカナディアン・ヘビー級王座(トロント版):1回 NWAサザン・ヘビー級王座(テネシー版):1回 NWAナショナル・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / スーパー・デストロイヤー) NWAフロリダ・グローバル・タッグ王座:1回(w / ジミー・ガービン) EWU世界スーパーヘビー級王座:1回 WCW Hall of Fame:1995年度 WWE Hall of Fame:2004年度(プレゼンターはビッグ・ショー) 脚注 [編集] ^ “WWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年3月18日閲覧。 ^ “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月5日閲覧。 ^ “NWA American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年3月18日閲覧。 ^ “NWA Mid-Atlantic Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年3月18日閲覧。 ^ “Masked Superstar Interview”. Mid-Atlantic Gateway. 2010年2月3日閲覧。 ^ “Wrestler: John Studd”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2010年2月3日閲覧。 ^ “Find a Grave: John Studd”. Find a Grave. 2010年4月9日閲覧。 ^ “Blackjack Mulligan Interview”. Mid-Atlantic Gateway. 2010年2月3日閲覧。 ^ “Wrestler Profiles: Ron Reis”. Online World of Wrestling. 2009年3月18日閲覧。 関連項目 [編集] スタン・ハンセン - 共にWWWFやジョージアをサーキットした親友同士で、家族ぐるみの付き合いをしていたという。 ウィリアム・ペリー - 1986年のレッスルマニア2(シカゴ大会)で行われたWWF&NFLのバトルロイヤルではペリーとスタッドの対決が焦点となった。 トリプルH - コワルスキー道場出身のトリプルHにとってスタッドはいわば兄弟子的存在であり、リスペクトを公言している。 |
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パット・パターソン(Pat Patterson)のリングネームで知られるピエール・クレモント(Pierre Clemont、1941年1月19日 - )は、カナダ・ケベック州モントリオール出身の元プロレスラー。現在はWWEのクリエイティブ・コンサルタントを務めている。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 逸話 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 少年時代からプロレスラーを志し、15歳の頃に裏方として働き始める。その時リングで活躍していたキラー・コワルスキーにレスラー志望であることを打ち明けたところ、マンツーマンの指導を受ける機会に恵まれ、1958年に16歳でプロレスデビュー。この当時からパット・パターソンのリングネームを名乗っていた。 1960年代からはアメリカ西海岸のNWA加盟団体を中心に活動。サンフランシスコではレイ・スティーブンスとの名タッグ「ブロンド・ボンバーズ(The Blond Bombers)」で鳴らし、ヒールとベビーフェイスの両方で活躍してトップスターとなる。同地区の看板タイトルであるUSヘビー級王座には、1969年から1977年にかけて、ペドロ・モラレス、ザ・ブルート、アンジェロ・モスカ、アレックス・スミルノフらを破り、通算6回に渡って戴冠した[1]。 日本には1968年4月に日本プロレスに初来日。1973年12月にはジョニー・パワーズとのコンビで北米タッグ王者として新日本プロレスに参戦、以降は新日の常連となり、1977年12月の来日時はアントニオ猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦した。また、同年よりサンフランシスコを離れフロリダやAWAなど各地の主要テリトリーを転戦。AWAではスティーブンスとのコンビを再結成し、1978年9月に世界タッグ王座を獲得している[2]。 1979年、グラン・ウィザードをマネージャーにヒールとしてニューヨークのWWF(現WWE)に登場。同年6月にテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取し、それをインターコンチネンタル王座と改称[3]。団体の最高位の王座であるとアピールし、WWF王者ボブ・バックランドと「王者対王者」の抗争を展開、7月から9月にかけてのマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦した[4]。その後ベビーフェイスに転向し、1980年代初頭までWWFの主要レスラーとしてケン・パテラやサージェント・スローターと抗争。並行して地元モントリオールの団体(ジャック・ルージョー・シニア主宰)にも出場していたが、1984年に現役を引退した。 現役引退後はWWFのロード・エージェントを担当し、ブッカーとしてストーリー立案に関わった。1996年にはWWF殿堂入りを果たしている。1997年のモントリオール事件のブッカーの一人であるとされ、またWWFのアティテュード路線における主要なブッカーでもあった。引退後もミスター・マクマホンの側近として時折ストーリーに絡み、2000年6月19日にはハードコア王座にも戴冠している。 2003年のRAW10周年記念特番では、ミーン・ジーン・オーカーランドと共に『放送に問題あり賞』のプレゼンターを務めた。尚、この時この賞を受賞したのは、自身も関わったマーク・ヘンリーとメイ・ヤングのラブストーリーであった。 2004年に入り、トリプルHの起用法を巡りビンス・マクマホンと対立、同年10月にWWEを退団したが、2005年5月に復職している。 得意技 [編集] アトミック・ドロップ フィギュア・4・レッグロック スリーパー・ホールド ダイビング・ニー・ドロップ 獲得タイトル [編集] NWA パシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座 : 3回 パシフィック・ノースウエスト・タッグ王座 : 2回(w / トニー・ボーン、ザ・ハングマン) USヘビー級王座(サンフランシスコ版) : 6回 NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版) : 9回(w / スーパースター・ビリー・グラハム、ペドロ・モラレス、ペッパー・ゴメス、ピーター・メイビア、ムーンドッグ・メイン、ロッキー・ジョンソン×3、トニー・ガレア) 北米ヘビー級王座(アマリロ版) : 1回 ブラスナックル王座(アマリロ版) : 1回 フロリダ・タッグ王座 : 1回(w / イワン・コロフ) フロリダTV王座 : 1回 アメリカス・ヘビー級王座 : 1回 AWA AWA世界タッグ王座 : 1回(w / レイ・スティーブンス) WWE 北米ヘビー級王座(インターコンチネンタル王座) : 1回(初代王者) ハードコア王座 : 1回 Hall of Fame : 1996年度(プレゼンターはブレット・ハート) その他 北米タッグ王座(新日本プロレス版) : 1回(w / ジョニー・パワーズ) カナディアン・インターナショナル・タッグ王座 : 5回(w / レイモンド・ルージョー×2、ピエール・ルフェーブル×3) 逸話 [編集] 非常に人間味のある性格の持ち主。アントニオ猪木が若手時代、サンフランシスコに遠征し、慣れぬ地で孤独を味わっていた頃、パターソンは親身に猪木に話しかけ、知人だった日系の料理人に頼んでスキヤキをご馳走したことがある。パターソン自身もフランス語圏出身で英語に苦労し、孤独を強いられていた頃があったため、猪木の境遇がよく理解できたという。ブッカーとして高い信頼を得ることができたのも、このような人柄によるところが大きい。また猪木自身もそのことを恩義に感じ、後に数度に渡って新日本に彼を招聘し、NWF王座にも挑戦させた。 1979年6月にテッド・デビアスから奪取した北米ヘビー級王座は同年9月にインターコンチネンタル王座と改称され現在に至るが、改称後の同年11月、パターソンは別のベルトを持参し「WWF認定北米ヘビー級王者」として新日本プロレスに来日、坂口征二に敗れ王座を明け渡している[5]。以降、同王座は新日本の管理下に置かれ、坂口はバッドニュース・アレンやドン・ムラコを相手に防衛戦を行った(1981年のIWGP提唱に伴い封印)[6]。 脚注 [編集] ^ “NWA United States Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ “AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ “History of the WWE Intercontinental Championship: Pat Patterson's first reign”. WWE.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1970-1979”. The History of WWE. 2010年4月27日閲覧。 ^ “WWF North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。 ^ 『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P160-161(1986年、ベースボール・マガジン社) |
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パット・タナカ(Patrick "Pat" Tanaka、1963年8月5日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身[1]の日系アメリカ人。出身地はハワイ州ホノルルとされる場合もある。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] 1950年代から1960年代にかけて活躍した日系人プロレスラーであり、NWAフロリダ地区のブッカーでもあったデューク・ケオムカの三男[1]。1983年末に留学生として新日本プロレスに入門し、1984年4月7日の佐野直喜戦でデビュー。アメリカに帰国後は、NWAミッドアトランティック地区などでジョバーとしてキャリアを積んだ。 1986年よりテネシー州メンフィスのCWAを主戦場に、ポール・ダイヤモンドとのバッド・カンパニー(Badd Company)で活躍。同地区認定のタッグタイトルを再三獲得した[2][3]。1988年からはダイヤモンドと共にAWAに参戦。マネージャーにはダイヤモンド・ダラス・ペイジが就き、ミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)とAWA世界タッグ王座を争った[4]。 1989年8月には外国人サイドで新日本プロレスに再来日、オーエン・ハートと組んでIWGPタッグ王座決定リーグ戦に参加している。同年にWWFと契約し、ミスター・フジをマネージャーにサトーこと佐藤昭雄とオリエント・エクスプレス(The Orient Express)を結成。佐藤がフロント入りした1990年の末からは、旧友ダイヤモンドが覆面レスラーのカトーを名乗って新加入、1991年には揃ってSWSにも来日した。 1992年の初頭にWWFを離れ、メキシコなどを転戦後、8月に日本のユニバーサル・プロレスリングに参戦。1993年からはダイヤモンドとバッド・カンパニーを再結成してECWやUSWAを転戦した。1996年にはWCWでエル・ガトー(El Gato)なるタイガーマスクの偽物風の覆面レスラーに変身し、6月16日のグレート・アメリカン・バッシュにてコナンのUSヘビー級王座に挑戦している[5]。 2001年10月、GOKU-DOのリングネームで12年ぶりに新日本プロレスに登場、TEAM 2000のメンバーとなって活動した[6]。以降はセミリタイアし、2005年より各地のインディー団体へのスポット出場を続けている。 得意技 [編集] トラース・キック バックハンド・チョップ ダイビング・クロスボディ この他、受身の巧さにも定評があり、クローズラインを受けた際には体を後方にキリモミ状に回転させてバンプを取ることで、その威力を引き立たせていた[7]。 獲得タイトル [編集] CWAインターナショナル・タッグ王座:5回(w / ジェフ・ジャレット、ポール・ダイヤモンド×4) [2] AWA南部タッグ王座:2回(w / ジェフ・ジャレット、ポール・ダイヤモンド) [3] AWA世界タッグ王座:1回(w / ポール・ダイヤモンド) [4] UWA&UWFインターコンチネンタル・タッグ王座:1回(w / ブルドッグ "パニッシュ" KT) 脚注 [編集] ^ a b c 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P61(2002年、日本スポーツ出版社) ^ a b “CWA International Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。 ^ a b “AWA Southern Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。 ^ a b “AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。 ^ “WCW Show Results 1996”. The History of WWE.com. 2009年11月17日閲覧。 ^ メキシコやユニバーサル・プロレスリングにおいて邪道・外道の兄貴分的存在だったため、リングネームも合わせている。 ^ 『Gスピリッツ Vol.13』P42:TAKAみちのくインタビュー(2009年、辰巳出版)ISBN 4777807150 |
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バック・ロブレイ(Buck Robley)のリングネームで知られるフィル・バックリー(Phil Buckley、1942年 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。インディアナ州インディアナポリス出身。
※リングネームの読みは「ロブリー」が原音に近いが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記に準ずる。 目次 [非表示] 1 来歴 2 獲得タイトル 3 脚注 4 外部リンク 来歴 [編集] アメリカ海兵隊でのレスリングのキャリアを背景に、1966年にミッドサウス(オクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピ)のNWAトライステート地区にてデビュー[1]。当時はフィル・ロブレイのリングネームを名乗り、1970年2月に日本プロレスに初来日している。 1971年、交通事故で負傷したためにマネージャーに一時転身[1]。その後もレスラー兼任のヒールのプレイング・マネージャーとなり、バック・ロブレイと改名。トライステート地区ではブッカーも兼任し、若手時代のスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディの面倒も見ていた[1]。 以降もアマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区(ザ・ファンクス主宰)やカンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区(ボブ・ガイゲル主宰)などに参戦しつつ、ミッドサウス・エリアを主戦場に活動。1970年代後半よりベビーフェイスのポジションに回り、1979年にトライステートの重役だったビル・ワットが新団体MSWAを興すと、リング内外においてワットの腹心となって活躍。同年11月12日にはワットとのコンビでマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンを破り、2代目のミッドサウス・タッグ王者となる(同王座は1980年4月6日にもジャンクヤード・ドッグと組み、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズから奪取している)[2]。ブッカーとしても手腕を発揮し、MSWA初期の隆盛を支えた[3]。 1981年10月、全日本プロレスの『ジャイアント・シリーズ』に来日。当時は全日本プロレスと新日本プロレスのレスリング・ウォーが激化しており、次シリーズの『'81世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦に新日本から引き抜かれたスタン・ハンセンが登場、ブロディとの再合体を果たした。過去の両者との関係から、この一件にはロブレイが関与していたともされている[1]。 その後も全日本マットでブロディと行動を共にし、マネージャーとなって試合のセコンドも務めたが、ロブレイは実際にブロディのビジネス上のマネージメントを担当しており、全日本やプエルトリコへのブッキングも行っていた[4]。ロブレイ本人も全日本からは厚遇され、1982年4月の『第10回チャンピオン・カーニバル』に出場した際は、ビル・ロビンソンをはじめ国際プロレスのエース外国人だったアレックス・スミルノフやモンゴリアン・ストンパーらと引き分けるなど、一介の中堅外国人に止まらない扱いを受けた。また、カーニバル終了後に開幕した『グランド・チャンピオン・シリーズ』にもブロディのマネージャー役として残留参戦し、ブロディとジミー・スヌーカの仲間割れアングルにも一役買っている。 1983年はアラバマのSECW、1984年はフロリダのCWF(エディ・グラハム主宰)などを転戦し、1985年からはサンアントニオのテキサス・オールスター・レスリング(旧SCW)の運営にもブロディと共に参画していた。引退後はルイジアナ州ボージャーシティに在住。 獲得タイトル [編集] NWAトライステート / MSWA NWA USタッグ王座:2回(w / ボブ・スローター、ビル・ワット) NWAルイジアナ・タッグ王座:1回(w / ビル・ワット) ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / ビル・ワット、ジャンクヤード・ドッグ) NWAセントラル・ステーツ NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / クラッシャー・ブラックウェル、ブルー・ヤンキー) NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回 NWAセントラル・ステーツTV王座:1回 その他 NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ハンク・ジェームズ) NWAアラバマ・ヘビー級王座:1回 脚注 [編集] ^ a b c d e 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P62(2002年、日本スポーツ出版社) ^ “Mid-South Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年3月16日閲覧。 ^ “Buck Robley, wearing a “Nobody Calls Me Yellow” T-shirt”. J.R.'s Family Bar-B-Q. 2010年3月16日閲覧。 ^ スタン・ハンセン『魂のラリアット』P112(2000年、双葉社) ISBN 4575291080 |
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