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ジョニー・カジミア(Johnny Kashmere,1978年11月6日生)―本名:ジョン・カジミア―(John Kashmere)は、アメリカ合衆国出身のプロレスラーである。[1]
相棒のトレント・アシッドとともにカジミア(右) ―2003年 身長おおよそ183センチメートル、体重おおよそ87キログラム。プロレスラーのゲイリー・ウォルフとアンソニー・デュランテによる『ピットブルズ』というタッグからの訓練を受けたうえで、1999年にプロレスラーとしてデビュー。[1] そしてこの年の7月にコンバット・ゾーン・レスリング(CZW)のマットにデビュー[2]してからというもの、長きにわたってCZWを舞台に活動してきた。[1] そのCZWが大日本プロレスとの抗争を展開した2000年代の初頭にあっては、いわゆるCZW軍の一員として日本を舞台に活躍。この時期に大日本プロレスのマットを舞台に対戦した相手には、トレント・アシッド、MEN'Sテイオー、葛西純、関本大介、『神風』、保坂秀樹、伊東竜二が含まれ、タッグを組んだ相手には、ジャスティス・ペイン、トレント・アシッド、葛西純が含まれる。[3] 2001年には横浜の地で大日本プロレスのジュニアヘビー級王座を獲得した。[4] トレント・アシッドと結成した『バックシート・ボーイズ』というタッグの活躍には目覚しいものがあり、1999年にイースト・コースト・レスリング・アソシエーションのタッグ王座を獲得[5]してからというもの、2000年から2003年に掛けて、ニュージャージー〜横浜〜フィラデルフィアを舞台に4度にわたってCZWのタッグ王座を奪取。[6] 2003年の9月には更にリング・オブ・オーナーのタッグ王座を獲得している。[7] 2004年にはプロレスリング・アンプラグドというプロレス団体をフィラデルフィアの地に創立。この団体の設立の背景には、CZWとの―そしてその所有者たるジョン・ザンディグとの確執が絡んでいたという。[2] 出典 [編集] ^ a b c オンライン・ワールド・オブ・レスリング:ジョニー・カジミア (英語) ^ a b プロレスリング・アンプラグドの歴史@インディー・レスリング・ニュース (英語) ^ 8月11日(土) ツインメッセ静岡大会 | 8月16日(木) 名古屋市体育館大会 | 8月19日(日) 横浜文化体育館大会 | 8月18日(土) アクトシティ浜松大会 | 8月12日(日) 四日市オーストラリア記念館大会 | 8月25日(土) 東京・後楽園ホール大会 ― スケジュール&試合結果 / 大日本プロレス ^ BJW認定ジュニアヘビー級王座 (英語) ^ ECWAタッグ王座の歴史 (英語) ^ タイトルの歴史 (英語) コンバット・ゾーン・レスリング ^ タイトルの歴史 ― ROHタッグ王座 (英語) リング・オブ・オーナー PR |
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ショーン・オヘア(Sean O'Haire、1971年2月25日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー、格闘家。本名はショーン・クリストファー・ヘイア(Sean Christopher Haire)。サウスカロライナ州ヒルトンヘッド出身。Valor Fighting所属。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 WCW 1.2 WWF / WWE 1.3 K-1・総合格闘技時代 2 戦績 2.1 総合格闘技 2.2 キックボクシング 3 プロレスの得意技 4 獲得タイトル 5 人物 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 10歳の頃から格闘技のトレーニングを始める。ムエタイをバックボーンに、キックボクシングの大会にも出場、11戦10勝1敗の戦歴を挙げるなど活躍した。 WCW [編集] 1999年、WCWのパワープラントに入る。ポール・オーンドーフのトレーニングを受け、2000年6月にデビュー。同じくパワープラントで一緒に練習していたマーク・ジンドラックとのコンビでタッグ王座を奪取するなど、期待のルーキーとして売り出される。その後同世代のチャック・パルンボらとルーキー集団「ナチュラル・ボーン・スリラーズ(NBT)」を結成し、エースとして活躍。パルンボとのコンビでもタッグ王座を獲得した。 WWF / WWE [編集] 2001年のWCW崩壊後はWWFと契約し、WCW/ECW連合軍(アライアンス)の一員として登場。WCW時代からの盟友パルンボとのタッグでAPAらと抗争する。しかし、ファームで再調整したいというオヘア自身の希望もあってタッグは解消し、WWEの下部組織OVWにて活動をすることになった。 2003年1月から黒スーツ姿の悪魔の代弁者ギミックで登場。"I'm not telling you anything you don't already know"(『俺が言うまでもないだろ?』)などの決め台詞をプロモで煽っていたが、ギミックをあまりうまく活かせず、ブライアン・ケンドリックとドーン・マリーにストリップを促した程度である。その後はWWFレジェンドのロディ・パイパーをマネージャーにスマックダウンで活動したが、現役時代の薬物使用が発覚してパイパーが離脱。以降は出番をなくし、2004年4月に解雇された。ちなみに、当時のヴェロシティにてトライアウト時代のケン・ケネディと試合を行っている。 5月には新日本プロレスなどにも参戦したが、突如プロレスを批判するようなコメントを発し、総合格闘技への転身を告白する。 K-1・総合格闘技時代 [編集] UPWシャークタンクジム/バラーファイティングに所属し、ゲーリー・グッドリッジやマイティ・モーらとのスパーリングで総合格闘技のトレーニングに励む。 2004年11月に「Rumble on the Rock」に出場。総合格闘技ルールの試合で大山峻護をスタンドパンチで圧倒、TKO勝ちを収めた。 2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!にて武蔵とK-1ルールで対戦。2Rに左ハイキックでKO負けを喫した。 2005年4月30日、K-1 WORLD GP 2005 in LAS VEGASにてゲーリー・グッドリッジとK-1ルールで対戦。1R55秒、右アッパーでTKO負け。 2005年11月5日、HERO'S 2005 in SEOULでキム・ミンスと対戦し、フロントチョークで一本負け。 2006年4月29日、K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGASでハリッド"ディ・ファウスト"とK-1ルールで対戦。1R23秒、右アッパーでKO負け。 2006年10月21日、PRIDE.32 "THE REAL DEAL"でバタービーンと対戦し、1R29秒、右フックでTKO負け。 2007年4月に起こした暴行事件で重傷を負ったが、同年8月17日にGFC(グローバル・ファイティング・チャンピオンシップ)にてマーク・ケアーとの対戦が発表された。しかし試合当日のメディカルテストにて、GFCに参戦する半数の選手がテストをパスできずに、試合開始1時間前に大会自体が中止になってしまった。オヘア自身には問題なかった模様である。 戦績 [編集] 総合格闘技 [編集] 総合格闘技 戦績 5 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 3 勝 3 0 0 0 0 0 2 敗 1 1 0 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 ○ フランキー・パークマン 1R 1:04 KO Champions Quest: Fighting Challenge 2007年12月7日 ○ ダレル・ウッド KO Champions Quest: Fighting Challenge 2007年9月29日 × バタービーン 1R 0:29 TKO(右フック) PRIDE.32 "THE REAL DEAL" 2006年10月21日 × キム・ミンス 1R 4:46 フロントチョーク HERO'S 2005 in SEOUL 2005年11月5日 ○ 大山峻護 1R 0:31 TKO(スタンドパンチ) Rumble on the Rock 6 2004年11月20日 キックボクシング [編集] キックボクシング 戦績 3試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合 0勝 0 0 0 0 0 3敗 3 0 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 × ハリッド"ディ・ファウスト" 1R 0:23 KO(右アッパー) K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGAS 【USA GP 1回戦】 2006年4月29日 × ゲーリー・グッドリッジ 1R 0:55 KO(右アッパー) K-1 WORLD GP 2005 in LAS VEGAS 【USA GP 1回戦】 2005年4月30日 × 武蔵 2R 0:44 KO(左ハイキック) K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!! 2004年12月31日 プロレスの得意技 [編集] ショーントーンボム(セントーン・ボム) リバース・デスバレーボム クルーアル・インテンションズ→プロフェシー→ウィドウ・メーカーと改名。通常のデスバレーボムとは逆に、相手の足側から落とす。 ムエタイ仕込みの打撃技 獲得タイトル [編集] WCW世界タッグ王座 : 3回(w / マーク・ジンドラック×2、チャック・パルンボ×1) 人物 [編集] 素行不良で知られており、様々なトラブルを起こしている。本人自身も、インタビュー内で小さい頃から地下ファイトで暴れていたことや、バーに行くとケンカをしたくなる、などのコメントを発している。 2004年7月、クラブで女性を殴る蹴るなどの暴行殴打事件を起こし訴えられる。 2007年4月、フロリダ州のバーで一般客と口論になり喧嘩するという事件を起こす。オヘアから仕掛けたことが目撃者の証言から明らかになっており、その喧嘩が原因で頭蓋骨骨折と左目に大怪我を負う。 正確な生年月日は不明である。日本ではK-1、PRIDE、HERO'Sのプロフィールがすべてバラバラであり、アメリカでのプロフィールもそれぞれのサイトによって異なっている。上記のプロフィールは、最新データのプロフィールを元に記載している。 その甘いルックスからWCWの時から女性の人気が非常に高かった。日本公演でも、ヒールでありながら黄色い声援が送られていたほどである。 |
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アダム・バーチ(Adam Birch、1979年7月18日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョーイ・マーキュリー(Joey Mercury)というリングネームでWWEで活動中。
目次 [非表示] 1 経歴 2 得意技 3 タイトル履歴 4 外部リンク 経歴 [編集] 1996年6月12日にプロレスデビュー。デビュー時のリングネームはジョーイ・マシューズ(Joey Matthews)であった。マット・ハーディー、ジェフ・ハーディー兄弟のオメガレスリングにも一時期所属していたことがある。クリスチャン・ヨークとのタッグチーム、Badstreet Boysにて2000年にECWデビューと契約してOVWに所属。そこでジョニー・ナイトロ、メリーナとMNMを結成、同時にリングネームを現在のジョーイ・マーキュリーへと改めた。 2005年にスマックダウンに初登場。同年4月21日にレイ・ミステリオ、エディ・ゲレロ組からWWEタッグ王座を奪い、以降タッグ戦線の主要チームの一員として活動。Judgment Day 2006にてポール・ロンドンとブライアン・ケンドリックのタッグにタッグ王座を奪われるまで続いた。 MNM時代(右) 2006年のアルマゲドンにおいてフェイタル4ウェイラダー・マッチ形式WWEタッグ王座戦において、マット&ジェフのハーディーズの梯子を使用したイベント・オメガを受ける際の事故で顔を負傷し、鼻を骨折し片目を失明しかけた。しかし数週間後には試合に復帰。WWEに限らずプロレスのファンは激しく負傷したレスラーにはヒール・ベビーを問わず大きく声援を送るのが通例になっており、これを切っ掛けにベビーターンをするヒールレスラーも多いが、フェイスマスクを着用し、マットとの抗争を開始した。 ヒールとして一定の成功をおさめ、技術の上達もありWWE上層部に認められたナイトロとは対照的に、なかなか人気が出なかったため、2007年3月、WWEを解雇された。その後インディ団体に参戦していたが同8月、OVWにジョーイ・マシューズのリングネームで復帰した。 2008年の10月には怪我のため現役を引退する。 2010年の4月23日のSmackDown!のダークマッチでシェルトン・ベンジャミンとの試合で2年ぶり(WWEには3年ぶり)にリング復帰した。 この試合の2日後にベンジャミンは解雇されたため彼にとってこの試合はWWEでのラストマッチになった。 その後、リングネーム不詳の謎のマスクマンとしてCMパンク率いるストレートエッジ・ソサエティに協力していたが、2010年7月23日放送のSmackDown!のビッグ・ショー戦でマスクを剥ぎ取られた上に、実況陣のマット・ストライカーとジョシュ・マシューズの発言により正体がマーキュリーであることが明かされてしまった。4人で行動していたが、セリーナがWWEから解雇されて3人で行動することになる。 8月15日のサマースラムではストレート・エッジ・ソサエティ対ビッグ・ショーの3対1のハンディキャップ・マッチに臨むが敗北。その後から弟子たちのことを考えないパンクの自己中心的な態度が目立つようになる。9月3日で汚名返上を図ったルーク・ギャローズ対ビッグ・ショー戦でもギャローズが敗北、これでビッグ・ショーを倒せないパンクの怒りが爆発して弟子のギャローズをGTSで沈めてしまう。これによりストレート・エッジ・ソサエティは壊滅状態となり、共に行動することはほとんどなくなり、あっても仲間割れが生じるようになる。その後パンクがRAWにエッジとのトレードで移籍したためストレート・エッジ・ソサエティは完全に消滅した。 得意技 [編集] フランケンシュタイナー ネックブリーカー ダイビング・クロスボディ ドロップキック アリウープ 謎のマスクマン時代に一度だけレイ・ミステリオに対して使用した。 |
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豊田 真奈美(とよた まなみ、女性、1971年3月2日 - )は、日本のプロレスラー。一時期豊田 魔波(読み方同じ)を名乗っていたこともある。島根県益田市出身。身長167cm、体重74kg。血液型A型。
目次 [非表示] 1 所属 2 来歴 3 人物 4 得意技 5 過去使用していた技 6 入場テーマ曲 7 脚注 8 外部リンク 所属 [編集] 全日本女子プロレス(1987年 - 2002年) フリーランス(2002年 - ) 来歴 [編集] 1989年 5月6日 横浜アリーナの大舞台で、スイート・ハーツのパートナーである下田美馬と組んで、三田英津子・山田敏代の「ドリーム・オルカ」組との対戦。同期の4人がそろい踏みで、第一試合のタッグマッチに出場。通常は大技が見られない、第一試合であるにもかかわらず、豊田は美しいジャーマン・スープレックス・ホールドを山田に決めてフォール勝ち。ビデオ解説陣を驚かせた。 12月9日 後楽園ホールでの全日本選手権試合で、王者として山田敏代の挑戦を受ける。ジャーマン・スープレックス・ホールド、タイガー・スープレックス・ホールドで攻め込み、山田もドラゴン・スープレックス・ホールドで応戦するなど大熱戦となるが、30分時間切れ引き分け。この試合は1989年度女子プロレス大賞ベストバウト賞に輝いた。 1990年 6月17日 ジャパン・グランプリ90に参戦、決勝で2年先輩の堀田祐美子を破って初優勝、一躍スターダムにのし上がる。 7月21日 ジャパン・グランプリ優勝者として、大田区体育館のメインイベントでブル中野の保持するWWWA世界シングル王座に挑戦。圧倒的不利と言われる中、デビュー3年に満たないキャリアで当時絶対的な王者に君臨していたブルに正面から挑んだが、10分と持たず敗れる。 1991年 オールパシフィック選手権を獲得。 1月11日 川崎市体育館で、2年先輩である北斗晶の挑戦を受けたオールパシフィック選手権試合。右肘を痛めて片腕で臨んだ北斗を容赦なく攻め込みレフェリーストップで退ける。試合後、海狼組として北斗のタッグ・パートナーであるみなみ鈴香がマイク・アピールし、挑戦を表明。 3月17日 後楽園ホールで、同じく2年先輩であるみなみ鈴香の挑戦を受けたオールパシフィック選手権試合。スピード、テクニックが拮抗した好試合となったが、みなみが先輩の意地を見せた、だるま式ジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れて王座陥落。 5月26日 後楽園ホールで、アジャ・コングとセミファイナルでシングル対決。二人のシングルは1989年3月のルーキー時代以来で、メイン・イベンターとなってからは初の対戦となった。アジャ有利とみられていたが、豊田が最後まで食い下がり、30分フルタイム引き分けの激闘となった。 9月7日 大宮スケート・センターで、宿命の同期ライバル、山田敏代との2度目の大場所でのシングルマッチ。トップロープから場外へのラ・ケブラーダを見せるなど攻め込んだが山田も粘り抜き、30分時間切れ引き分け。 1992年 IWA世界女子シングル王座を獲得、さらに同期の山田敏代とのタッグでのUWAタッグ王座およびWWWA世界タッグ王座獲得。そして、昨年に引き続き、山田とのシングル対決がテーマとなった。 1月4日 後楽園ホールで山田敏代と3度目の対決。お互い全く譲らず、5分延長が認められたがそこでも決まらず、再度の5分延長。それでも勝負が決まらず、合計40分間フルタイムの引き分け。これで3試合連続、時間切れ引き分けとなった。 6月21日 後楽園ホールでのメインイベント、時間無制限一本勝負で山田敏代との4度目の対決。過去3度、ビッグマッチでの引き分け(89.12.9、91.9.7、92.1.4。この他地方でも対戦はあったが、全女では通常、いわゆる「大場所」と呼ばれる大会場での対戦回数でカウントする)を経て、完全決着戦に臨んだ。ノンストップの熱戦の末26分20秒、山田が日本海式竜巻原爆固めに対抗するための切り返し技である、初公開となるリバース・ゴリー・スペシャル・ボムで勝利。敗れた豊田は、IWAベルトと髪の毛を賭けての再戦をマイク・アピール。山田も快く受けて、前代未聞のベビーフェイス同士の髪切りマッチが実現することとなった。 7月5日 後楽園ホールでのメインイベントで、ジャパン・グランプリ公式戦、メインイベントで、アジャ・コングと対戦。場内・場外を縦横に駆使し、後楽園ホールのバルコニーからアジャに投げ落とされそうになるなど、激しい攻防が続いたが、最後はトップロープからの前方回転エビ固めでアジャから初フォールを奪取。 ジャパン・グランプリ'92では決勝に進出するものの、アジャ・コングに敗れ準優勝に終わる。 8月15日 後楽園ホールのメインイベントで、山田敏代とのIWA選手権および敗者髪切りマッチ。山田はこの日2試合目であり、不利が予想されていたが、山田も意地を見せた。最後は二人の対決の定番である、リバース・ゴリー・スペシャル・ボムとジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス(日本海式竜巻原爆固め)の打ち合い・切り返し合いの末、19分44秒、日本海式竜巻原爆固めで勝利。勝ったものの、豊田は山田の髪を切ることを拒み自分の髪にハサミを入れ、泣き崩れ、山田の髪切りを体を張って食い止めようとまでした。いっぽう、山田は堂々と髪切りに応じ、結果として二人の友情はさらに深まる結果となった。 11月26日 川崎市体育館でのJWPとの団体対抗戦第一弾として、メインイベントで山田敏代と組み、王者として尾崎魔弓・ダイナマイト・関西とのWWWA世界タッグ王座の防衛戦を行う。60分3本勝負で、激戦の末2-1で王座を防衛。ベスト・バウトを獲得し、対抗戦時代の幕開けを象徴する一戦となった。 1993年 対抗戦時代に入ると、尾崎魔弓・ダイナマイト・関西組とのWWWA世界タッグ王座をめぐる攻防、豊田を目標とする若手の福岡晶、テクニシャンのプラム麻里子とのシングルなどが注目された。 4月2日 横浜アリーナでの夢のオールスター戦では、メインイベントで山田敏代と組んで、FMWの工藤めぐみ・コンバット豊田組と60分1本勝負で対戦。セミファイナルでの北斗晶対神取忍戦が伝説的な死闘となったこと、試合途中で午前0時を回り席を立つ観客も多かったこと、初対決となったFMW勢の老獪なファイトと手が合わず、スイングしきれなかったこと、などが重なって、内容的には不満が残った。最終的には、合体のシャトルループ・バスター→驚異的なブリッジでのジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス・ホールドという必殺フルコースで勝利したものの、二人は記者会見を拒否、豊田は控室のドアに顔を伏せて号泣していた。 4月11日 大阪府立体育会館のセミファイナルで尾崎魔弓・ダイナマイト・関西組の再度の挑戦を受け、1-2で敗北、王座を失う。1本目はわずか12秒で山田が関西にフォールされ、3本目は豊田が合体技で尾崎にフォールを喫した。全日本女子プロレスの王座が史上初めて、他団体へ流出した歴史的な瞬間であった。 6月3日 札幌中島体育センターで、豊田を目標とするJWPの福岡晶と対戦。ともに長髪、黒いコスチューム、白とシルバーを基調としたリングシューズの美形レスラー同士の対戦。ムーンサルトプレス(この試合で豊田は、立っている状態の福岡にも敢行)、ローリング・クレイドル、ぐるぐるパンチ(福岡の得意のムーブ)などを出し合ったが、豊田が終始余裕を見せて、ジャパニーズ・オーシャン・スープレックスで勝利を収めた。 9月29日 愛知県体育館でLLPWとの対抗戦に参加、山田敏代と組んでハーレー斉藤・半田美希組と対戦し勝利。この時の序盤で半田に見舞ったドロップキックの映像は、角度や照明の関係からか、半田にヒットする際の足の伸び具合やヒットする瞬間の鈍い衝撃音などをよく見聞きすることができる。 10月9日 東京ベイNKホールでJWPの尾崎魔弓とシングル・マッチ。パートナーの山田はダイナマイト・関西とシングル・マッチが組まれており、WWWA王座を奪われた二人がシングルでリベンジをはかる機会となった。山田は関西に敗れたが、豊田は尾崎に場外でのジャーマン、ラ・ケブラーダ(この時の飛距離と高さは特筆ものであった)を放つなど気合い十分のファイトを見せた。尾崎も見事な切り返しと一瞬のラッシュで反撃したが、最後はスタミナの切れかけた尾崎を肩に載せ、カメラマンの正面へと180度振り向いて歩いて見せ、ジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス・ホールドで勝利。 11月28日 大阪城ホールのセミファイナルで山田敏代とのオールパシフィック選手権王座決定戦。4月以降タッグを一時凍結していた二人が、翌月のリターン・マッチを控えての対決となった。ライバル対決の集大成となったが、最後は山田が30分40秒、リバース・ゴリー・スペシャル・ボムで勝利を収めて王座奪取。負けた瞬間、豊田はマットを叩き、突っ伏したまま悔し涙を流していた。表彰式の後、二人は正座して礼をし、抱き合って健闘をたたえ合った。 12月6日 両国国技館のセミファイナルで尾崎・関西組とのリターン・マッチに挑む。この試合は通常と同タイトル戦と異なり、60分1本勝負で行われた。25分33秒、豊田が尾崎を、リバースのジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックスの姿勢からマットに叩きつけて王座奪回。 1994年 山田とのライバル関係、タッグが解消に向かう。シングル・プレイヤーとしての成長が著しく、山田に代わって新たなライバルとなった井上京子、WWWA王座をめぐるアジャ・コング、ダイナマイト・関西との戦いが中心となっていく。 8月24日 日本武道館のセミファイナルで、IWA王者として、オールパシフィック王者である井上京子とダブル・タイトルマッチ。ジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックスを返されるなど、後一歩のところまで追い詰められるが、京子の三角跳びからの雪崩式フロント・スープレックス、ナイアガラ・ドライバーをしのぎ切る。両者フィニッシュ・ホールドを出し尽くした死闘となったが、カウンターでのロープの反動を利用しての飛び付き式高角度回転固めで23分31秒、勝利をもぎとりシングル二冠王となった。 10月9日 川崎市体育館のメインイベントで、井上京子・井上貴子を相手にしたWWWA世界タッグ王座防衛戦。1-2で敗れ、王座陥落。 11月20日 東京ドーム、憧夢超女大戦でのV☆TOP WOMAN日本選手権トーナメントでは、1回戦でアジャ・コングと対戦。放送席の机を持ち出し、場外でアジャを机の上に載せて、トップロープからボディ・プレスを放ち机を割った。白熱した好勝負となったが、最後は17分17秒、アジャの、意表を突いたスタイナー・スクリュードライバーに沈む。WWWA王者であり、負けるわけにいかなかったアジャの執念が勝った結果となった。同興行での隠れベストバウトという評価もあった。 12月10日 タッグリーグ・ザ・ベスト94では、井上貴子と組んで、巴戦の末優勝。 1995年 吉田万里子、伊藤薫、長谷川咲恵と「フリーダム・フォース」を結成。ブリザードYuki(長谷川)とのタッグでWWWA世界タッグ王座にも挑戦した。 3月26日 横浜アリーナで、アジャ・コングからWWWA世界シングル王座を奪取。アジャに場外の机の上で、机が真っ二つに割れるパイル・ドライバーを食うなど激しく攻め込まれるが耐え抜き、28分10秒、雪崩式→通常型のジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス・ホールドの連発で王座初戴冠。92年11月から続いた、アジャの2年4か月にわたる長期政権を遂に終わらせた。 5月7日 後楽園ホールのメインイベントで井上京子を迎えたWWWA世界シングル防衛戦。全女では10年ぶりとなる60分フルタイムの名勝負を展開する。 6月27日 札幌中島体育センターで、アジャ・コングに20分越えの死闘の末、カウンター気味の裏拳でWWWA世界シングル王座を奪回される。 9月2日 日本武道館のメインイベントで、北斗晶とシングルマッチ。ドームでのアジャ戦と同じ、机割りの場外ボディ・プレスを見せたが、北斗も執念を見せて白熱の好試合となった。掟破りの逆ノーザンライト・ボム2連発で北斗からフォールを奪う。 9月3日 ジャパン・グランプリ95で、5年ぶり2度目の優勝。 12月4日 両国国技館のメインイベントで、ダイナマイト・関西からWWWA世界シングル王座を奪取。2度目の王座に就く。 12月25日 後楽園ホールのメインイベントで、「豊田真奈美クイーンズロード トライアル30」と題して、30人掛けを敢行。見事に戦い切る。1人1分1本勝負で、アジャらのエース級から最上真理、納見佳容など当時の前座まで20人が入れ替わり立ち替わり相手となった。戦績は9勝3敗18引き分け。この様子はビデオ『飛翔天女』で見ることができる。 1996年 3月31日 横浜アリーナのメインイベントで井上京子の挑戦を受けたWWWAシングル選手権試合。怪我を抱えており体調は万全ではなかった京子に対して、あえて痛めている右肩を攻めないクリーンな試合を貫いた。94.8.24、95.5.7のタイトル戦同様、お互いに持ち技を出し切る熱戦となったが、最後は21分29秒、ジャパニーズ・オーシャン・ボムで京子を沈めた。試合終了後のマイクアピール、表彰式後のインタビューでは京子の健闘を素直にたたえた。 2006年 4月 ZERO1-MAXのS-ARENA大会に於いて、男女混成出身地別都市対抗戦が行われ、島根県益田市出身同士というよしみで日高郁人とのタッグを結成した。 8月6日 20周年記念興行開催。第1試合からメインイベントまで全5試合に出場した。 2008年 8月10日 OZアカデミー興行でアジャ・コングとのリングネーム改名シングルマッチに敗れ、リングネーム改名を余儀なくされたが、「自分のことは自分でやる」と新リングネームを「豊田魔波」(魔は尾崎魔弓から取った)と発表し、尾崎軍団入りを表明した[1]。 2009年 9月 OZアカデミー興行でアジャ・コングの持つOZアカデミー認定無差別級王座に挑戦し、勝利。「昨年8月にアジャ・コングにリングネーム(豊田真奈美)を剥奪されたものの、9月21日札幌にて、そのアジャ・コングを倒し『OZアカデミー認定無差別級』のベルトを巻いたことにより屈辱は果たした」というマイクアピールを行い、10月11日付けでリングネームを本名に戻し、尾崎軍を脱退した[2]。 2010年 9月 北米のインディ団体「チカラ」に遠征。アメリカ初勝利を挙げる。この遠征は現地に住む師匠・山崎五紀の尽力で実現した。 人物 [編集] 1987年8月5日、全日本女子プロレスでの対中村幸子戦でデビュー。同期の下田美馬とスイート・ハーツとしてタッグを組んでいたこともある。その後山田敏代とタッグを組み大活躍したが、1992年には髪切りマッチで対決を行った。その後、シングルマッチタイトルの頂点であるWWWA世界シングル王座まで上りつめ、1990年代の全女の象徴として君臨した。現在もなおマットで活躍を続ける女子プロレス界のトップスター。そのテクニックは評価が高く、WWEディーヴァからもリスペクトを受けている(ナタリアはサバイバー・シリーズで組みたいレスラーの一人に挙げている)。 豊田の使う技は難易度が高く、彼女のオリジナル技が他のレスラーに使われることはほとんどない(全くないわけではないが、身体能力の問題で他人にはできないことが多い)。それらオリジナル技には出身地にあやかって「ジャパニーズ・オーシャン」の名を冠し、いずれも相手の腕をロックした状態で使うのが特徴的である。また女子プロレスには男子プロレスの影響が技などの面で少なからず及ぶことがあるが、豊田は全く男子プロレスを見ないタイプでその影響は全くといって良いほどなく、むしろ頑として拒否していた程であった。この辺りにも彼女の孤高さが見え隠れする。また、本気で勝負する選手であり、手加減はしないと断言している。特に「ラスタとんねるず'94」のジャイアント将棋では、本気さを見せつけ木梨憲武扮する憲王と3度に渡り死闘を繰り広げ2勝1敗の成績を残している。さらに同番組最終回のジャイアント将棋インテグラルでは、全女時代のかつての先輩・ライオネス飛鳥と相撲対決(実質はレスリング勝負)で壮絶な死闘を繰り広げた末に敗れている(豊田は現役選手である自分が引退した飛鳥に敗れたことを大変悔しがった)。 また1993年、山田敏代と豊田真奈美による「POWER ON THE DREAM」という曲でCDデビューも果たす(8cmシングルCD「Deep Up!」に収録。ポニーキャニオン)。 試合ではプランチャなどの華麗な飛び技を多用し、「飛翔天女」の異名をとる。しかしほとんどの飛び技は練習では怖くて飛べず、試合中の勢いに任せて飛んでいるらしい。 全日本女子時代の彼女のイメージ・カラーはピンクだったため、ピンク色の紙テープが飛んでいた。コスチュームの色もごく初期を除いてピンク×白→ピンク×黒と変化していき、最終的に黒を基調としたものとなった。一時期赤×金を着ていたが再び黒を基調としたものに変えている。なお、ガウンも黒が基調だったがコスチュームの色を変える以前から赤や白を取り入れている。 本人によると黒を好む理由は「全ての色を内包した一番派手な色だと思っている」から。また、一時期コスチュームを赤に変更した理由は当時全女から選手が大量離脱し、残ったレスラーの殆どが(黒を含む)暗色系のリングコスチュームだったため。 極度の打たれ強さとスタミナから「ゾンビ」という異名をとる。女子プロレス界の歴史において打たれ強さは人間離れをしており工藤めぐみと双璧をなしている。また、自分も怪我しそうな技を多く使うわりには負傷することが少ないのも特徴。全日本女子プロレスでは対抗戦初期までは場外にマットを敷いていなかったが、他の主力選手達と同様、平気でケブラーダやプランチャ、ミサイルキックを場外に放っていた。 体が非常に柔軟である。そのため高い身体能力と合わせ、後述のような難易度の高いオリジナル技を多数持つ。さらに相手の関節技が十分な威力を発揮しないことも多い。 トップロープから場内、場外へ飛ぶときの決まり文句が「よっしゃ行くぞー!」である。また、トップロープから場外へ飛ぶ際には、しばしば飛ぶ直前に手を合わせて拝むような格好をしていた。 得意技 [編集] ジャパニーズ・オーシャン・クインビー・ボム 腕をロックしての投げ技でノーザンライト・ボムに近い落とし方をする。現在のフィニッシュ技。 ジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス(日本海式竜巻原爆固め) 相手の腕を前で交差させて、後ろからその両手を掴みながら股の間に頭を入れ、肩車をし、そのまま後ろに倒れてブリッジをしフォールを奪う技。対アジャ・コング等、重量のある選手に対してはクラッチしてから抱え上げることがなかなかできなかったため、相手をコーナーポストに座らせてからクラッチして投げる雪崩式を用いていた。女子プロレスゲームレッスルエンジェルスでは、投げ技系最強の技として位置づけられている。 ジャパニーズ・オーシャン・スープレックス タイガー・スープレックスのように相手の腕を後ろでロックし、その相手の手首を掴んでロックを解けないようにして後ろに投げる技。フロントで投げるバージョンも初期は使用していた。 ジャパニーズ・オーシャン・ボム リバース・フルネルソンの体勢から相手を持ち上げ、その状態で腕をロックしたままライガーボムの要領でマットに叩きつける。 ジャパニーズ・オーシャン・バックドロップ 相手の後ろから左脇に頭を入れ、相手の左腕を相手の股下から右手で掴み、相手の左腕の上を通るように相手の右腕を左手で掴み、バックドロップの要領で後ろに投げる技。 タワーハッカー・ボム アルゼンチン・バックブリーカーの体勢で相手持ち上げ、回転をつけながらライガーボムの要領でマットに叩きつける技。ライオネス飛鳥の得意技であるが、本人はそのことを知らずにオリジナル技として開発し使用したが、その後、飛鳥の技と同じであることを知り、一度だけ使ったのみで封印している。 プランチャ・スイシーダ コーナートップから場外の相手へ向かってフライング・ボディ・プレスを仕掛ける技。飛ぶ前に手を叩いて観客を煽り、「よっしゃ行くぞー」と掛け声を挙げてから飛びかかる。 スワンダイブ式プランチャ・スイシーダ ロープの反動を利用して走り込み、スワンダイブの要領でトップロープに上り、そのまま場外にプランチャを行う。豊田ならではの跳躍力を生かした、ラ・ケプラーダと並ぶ、「飛翔天女」らしさが出ている技。 ドロップキック 若手時代からの得意技(ただしトップレスラーになった後も痛め技として多用している。)であり、相手が立ち上がったらまたロープに飛んでドロップキックを放ち、を何回も繰り返すムーブが一般的だった。また、相手をロープに吊り下げる(洗濯物を物干し台にかけるような形)体勢にして放つことも多い。ドロップキックとしては仰向け状態でマットと水平となる形で放ち、背中から着地するタイプ。その跳躍力、「交通事故」と形容されるほどの破壊力、相手が立ち上がりきらないうちに反復するスピードは女子プロレス史上最高レベルといってよいものであった。打点の高さもさることながら、蹴る瞬間に膝から下を伸ばしきり、下から上へ突き上げるように蹴り抜いていた。なお、発展技として、ロープに飛んで高角度回転エビ固めを狙うときに、相手にすかされそうになると、相手に足をつかまれる寸前にとっさに技を切り替えドロップキックを放つ、という技は、まさに豊田でしかできない動きであった。 ミサイルキック コーナーポストの上から高い打点で繰り出すドロップキック。飛距離が他選手と比べかなり長い。場外にいる相手に向かって出すこともある。こちらもドロップキック同様、仰向け状態でマットと水平となる形で放ち、背中から着地するタイプ。こちらのスピードも速く、相手が立ち上がりきらないうちにもう一方のコーナーポストに上っているほどであった(シングルの場合は四隅のコーナー全てに上って行うこともあった)。コーナーポストから場外へ向けて行うミサイルキックも圧巻。なお、これらとは逆に、コーナーポスト上にいる相手にドロップキックを放って場外へ蹴り落とすこともしばしばみられた(この技はみなみ鈴香も使っている)。 ムーンサルトプレス コーナーポストの上から後ろ向きに270°回転して体を浴びせていく飛び技。初期は精度が低かったが、次第に完成度が増し、形の美しさ、力強さなどあらゆる点からみて、もっとも優れたムーンサルトプレスの使い手の一人となった。なお、場外向きでコーナーに立った時に相手が後ろから迫ってきた場合にこの技の応用で脱出(相手を飛び越えて背後に立つ)、雪崩式のスープレックスをしかけたこともある。豊田の場合、この技を使う武藤敬司や小橋建太と違い膝に致命的な負傷箇所を持っていない。 ラ・ケブラーダ コーナーポストと鉄柱の間の金具部分に足をかけ、場外にいる相手に向かって後ろ向きに270°回転して体を浴びせていく飛び技。エプロンからトップロープに上り、スワンダイブ式の要領で場外へ向けて放つこともある。 ローリング・クレイドル 豊田のローリング・クレイドルはとてもスピードがありGAORAの紹介で「世界一美しい」と言われたほどである。調子の良いときは20回転以上回すこともあった。対抗戦時代には、福岡晶とローリング・クレイドル合戦を繰り広げた。 ロッキーフェイスボトム(高角度2回転エビ固め) ロープに振られた反動を利用してかけたり、パワーボム系の返し技としても使用することがある。相手の正面から相手のやや膝上に手をつき、そのまま逆さになって自らの背中を相手の身体正面に合わせると同時に伸び上がり、一瞬逆姿勢の肩車になってから素早く背面にそって前方回転をして瞬時に固める技。技を伝授したのはジャガー横田。 飛び付き式高角度回転エビ固め ロープに振られ、そのままトップロープに上り反転して回転エビ固めに移行する技。豊田の運動能力の高さがうかがえる技の一つ。 鎌固め リバース・インディアンデスロックに捉えたまま、ブリッジしてキャメルクラッチを仕掛ける合わせ技。アントニオ猪木が考案し使用していた。基本的には痛め技かつ見せ技(その見栄えで観客を引き込む技)である。 ビクトリー・スタードロップ コーナー最上段にリングの外をむかせる形で座らせた相手の胴体を足で挟み込んで後ろに反り返って相手をマットにたたきつける技。この技もしくはこれとほぼ同じ形の技(当初は「ビクトリー・スタードロップ」という言い方は必ずしもしていなかった)でアジャ・コングやダイナマイト・関西など、重量級の選手を相手に放って効果をあげた。 シャトルループバスター 山田敏代とのタッグで使用していた合体バックドロップで、ポスト上あるいはロープなどを利用して相手をほぼ一回転させるようにして投げるため、勢い余ってうつぶせになるようにして落ちる(つまり、実質的にはフェースバスターとなる)。だが、回転が中途半端だと相手は頭部からほぼ垂直に落ちることになり、非常に危険な技となってしまう(かつて、アジャ・コングと堀田祐美子の二人が、技の失敗により頭部からほぼ垂直に落ちている)。 スワンダイブ式セントーン ブーメラン・アタック ロープに振られた際に、トップロープまたはセカンドロープに飛び乗り、その反動で相手に対してボディアタックを放つ技。相手が頭を屈めてかわした場合には、そのまま飛びついて回転エビ固めに持ち込んでいた。 過去使用していた技 [編集] ダブルクロスアームサルト 相手の腕を交差させてのダブルアームサルト、1992年の髪切りデスマッチなどでつなぎに使っていた。 フロントフルネルソン・スープレックス・ホールド 正面からフルネルソンに決めてそのままブリッジ。長身の三田英津子からカウントスリーを取ったこともある。1990年代初期に使用していた技。 パロ・スペシャル 卍固め 入場テーマ曲 [編集] 「GRIND」(響野夏子) 「Mystic Eyes」(完全版 全日本女子プロレス選手別テーマ曲集) 「QUEEN OF QUEENS」(バクバクKissの世界) |
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チェリー(女性、5月14日 - )は、日本のプロレスラー。ユニオンプロレス所属。本名、年齢は非公開。
キャットファイト界からプロレスラーへ転身。DDTプロレスリングでデビュー後、ユニオンプロレス再旗揚げに伴い同団体へ移籍した。アマチュア時代にバトラーツジムに通っていたことがあり、バックボーンに男子プロレスの技術を持っている。澤宗紀とはジム生時代の同期である。 年齢を非公開としているためリング上で度々ネタにされているが、「ファンタジー」として非公開を貫き通している。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 キャットファイト時代 1.2 プロレスラー転身後 2 戦歴 3 得意技 4 タイトル歴 5 入場テーマ曲 6 脚注 7 外部リンク 経歴 [編集] キャットファイト時代 [編集] マスク・ド・チェリーのリングネームで新日本キャットファイト連盟(NCL)に所属。実力派キャットファイターとしてMONDO21「女闘美X」やパラダイステレビへ出演。2004年5月13日には自主興行も行っている。 キャットファイトと並行してCROWN、T.A.M.A.といったインディー団体にも参戦。またSGPにマスクウーマン、宇宙銀河戦士ソフィアとして参戦していた。 2004年7月19日にNCLを退団。同月25日にキャットファイトを卒業。 プロレスラー転身後 [編集] 2004年6月16日、DDTプロレスリング北沢タウンホール大会で所属選手としてデビュー。2005年11月3日のユニオンプロレス再旗揚げに伴い移籍。ユニオン移籍後は他団体へゲスト参戦する機会が増え、女子団体を中心に積極的に試合をしている。 2008年6月17日、プロレスリングWAVEによる若手中心の興行「ヤング オー!オー!」の終身名誉顧問に任命された。 2010年9月27日、女子プロレス界の動き・話題に絡んでいくためとして、Ustream番組「さくらんぼ狩りナイト!」を開始。 2010年10月7日、DDT48総選挙の結果発表で3位となる[1]。 戦歴 [編集] 2004年 6月16日、東京・北沢タウンホールにおいて、対高梨将弘、「昭和」子(現:バンビ)組戦でデビュー。デビュー戦のパートナーは藤田峰雄。 2005年 6月29日、東京・後楽園ホール(DDTプロレス Audience2005)において、アイアンマンバトルロイヤルに参加。 2006年 4月15日、「格闘美〜Future〜(League Princess公式戦)」において、風香と対戦。飛び付き腕ひしぎ逆十字でギブアップ負け。 4月23日、「格闘美〜Future〜(League Princess公式戦)」において、春日萌花と対戦。チェリトーン・ボムで勝利。 5月4日、「格闘美〜Future〜(League Princess公式戦)」において、栗原あゆみと対戦。敗れる。 5月13日、「格闘美〜Future〜(League Princess公式戦)」において、市井舞と対戦。スモールパッケージホールドで敗れる。 6月11日、「格闘美〜Future〜(League Princess公式戦)」において、浦井百合と対戦。ダブルクラインで勝利。 6月24日、「格闘美〜Future〜」において、渋谷シュウ、中川ともかと組んで、市井舞、春日萌花、浦井百合組と対戦。ダブルクラインで春日から勝利。 9月10日、新木場1stRING「格闘美〜Dreamer06〜」において、元気美佐恵と組んで、タニー・マウス、阿部幸江組と対戦。元気がタニーに丸め込まれて敗れる。 9月17日、新木場1stRING「格闘美〜Dreamer06〜」において、アップルみゆきと組んで、闘牛・空、闘獣牙Leon組と対戦。空に丸め返され敗れる。 10月7日、東京・新木場1stRING「格闘美〜Dreamer06〜」において、風香と組んで、市井舞、佐藤綾子組と対戦。風香が市井の彗星キックで敗れる。 10月28日、東京・新木場1stRING「格闘美〜Dreamer06〜」において、カリビアン・RUMと対戦。敗れる。 12月31日、東京・後楽園ホール「第4回ジュニア・オールスター戦」において零(現:Ray)と対戦。シューティングスタープレスで敗れる。 2007年 4月27日、ユニオン 赤レンガ大会において吉田万里子と対戦。蜘蛛絡みで敗れる。 7月4日、ユニオン 新木場1stRING大会において、石川修司と組んでワンデイ・タッグトーナメントに出場。決勝に進み、大家健をチェリトーン・ボムで沈めて優勝。KO-Dタッグベルト挑戦権を獲得。 8月11日、ユニオン 闘うビアガーデンにおいて、吉田万里子をパートナーに迎え、ヌルヌルブラザーズ(中澤マイケル・松永智充)とKO-Dタッグ選手権を争う。男子相手に熱戦を繰り広げるが、中澤のマイケル・ノーモアクライ∞に敗れる。 11月21日、ユニオン 新木場1stRING大会において、倉垣翼と対戦。ケブラドーラ・トド・アルトで敗れる。 12月31日、東京・後楽園ホール「第5回ジュニア・オールスター戦」に2年連続出場。渋谷シュウ、大木アスカと組んで、華名、中川ともか、大畠美咲組と対戦。渋谷が大畠からサタニカでギブアップを奪う。 2008年 3月5日、ユニオン 新木場1stRING大会のメインにおいて、日向あずみと対戦。男子団体での女子選手のメインはFMWでの工藤めぐみ以来の快挙となり注目を集めるが、日向のみちのくドライバーIIで敗れる。 4月29日、NEO 板橋グリーンホール大会において、渋谷シュウと組んで、宮崎有妃、植松寿絵組と対戦。宮崎をウラカン・ラナで丸め込み、勝利。 5月4日、北沢タウンホールにて初の自主プロレス興行「ファンタジー・イリュージョン」を開催。メインで石川ジャイ子と組み、高梨マサ子、ランジェリー武藤娘組と対戦。高梨マサ子にチェリトーン・ボムで勝利。 5月5日、NEO 後楽園ホール大会において、渋谷シュウと組んで、NEOマシンガンズ(タニー・マウス、宮崎有妃)組とNEO認定タッグ選手権を争う。タニーのキン肉バスターで敗れる。 8月9日、闘うビアガーデン2008 ユニオンプロレスDAYにおいて、高梨マサ子と敗者ユニオン追放マッチを行う。ジャーマン・スープレックスからのチェリトーン・ボムで勝利。 8月16日、プロレスリングWAVE 新宿FACE大会にてバトラーツジム時代の同期である原学と組んで、石川雄規、及川千尋組と対戦。腕ひしぎ逆十字固めで及川からギブアップを奪い、勝利。 10月9日、ユニオン 新木場1stRING大会においてさくらえみと対戦。変形ラ・マヒストラルで丸め込まれ敗北するも、試合後にユニオンとアイスリボンの全面抗争を宣言する。 12月21日、ユニオン 北千住シアター1010大会においてさくらえみ、高梨マサ子とのハンディキャップマッチに勝利。抗争に終止符を打ち、アイスリボン側と和解した。 2009年 2月15日、ユニオン 北千住シアター1010大会において高梨マサ子とのタッグで松本浩代、大畠美咲組と対戦し、フルーツバスケットで勝利。マサ子とのタッグ継続を表明。 3月15日、プロレスリングWAVE 新木場1stRING大会において闘牛・空、アルブレッド・ネクレンブルク組とアイアンマンヘビーメタル級選手権試合を行う(パートナーはアーノルド・スケスケジャネーカー)。9分59秒、ジャーマン・スープレックスで闘牛・空をフォールし、第772代王者となった。 2010年 8月8日、ユニオンビアガーデンプロレス 新木場1stRING大会においてさくらと対戦するも、りほに酷似した覆面レスラー「ブラックチェリー」の襲撃を受けノーコンテスト。以降、みなみ飛香似の覆面レスラーを加えたブラックチェリー1号・2号と抗争を展開するが、和解。 10月12日、プロレスリングWAVE 新木場1stRING大会において華名と対戦し、15分時間切れ引き分け。 10月28日、DDT勢が多数参戦した韓国WWA蔚山現代中央体育館大会にて桜花由美と対戦し、引き分け。 11月3日、ユニオン 新木場1stRING大会のメインイベントにおいて米山香織の持つJWP認定無差別級王座に挑戦するも敗退。 得意技 [編集] チェリーラナ ウラカン・ラナ チェリトーン・ボム コーナー最上段にリングに向かって立ち、そこから前方回転。セントーンを決める。この技の特徴は、背を反らせて飛ぶこと。この技はBaby-MとMIKAMIの2人から伝承された。 チェリスト(旧名ダブルクライン) 変形のダブルリスト・アームサルト。 ヤングキック ローリングソバット。 ファンタジーイリュージョン。 変形丸め込み 春夜恋 さくらんボム コルバタ ジャーマン・スープレックス ブリザード・スープレックス ランニング・ネックブリーカー タイトル歴 [編集] アイアンマンヘビーメタル級王座 (第183代、第186代、第772代、第775代、第779代、第789代、第807代) 入場テーマ曲 [編集] キューティーハニー(アニパラmix) 脚注 [編集] ^ DDT48総選挙1位だったディーノが「ワタシが夢を創ります!」とエース宣言!高木がユニオンへの移籍を電撃発表! バトル・ニュース 2010年10月7日 |
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